【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2023年12月17日説教要旨
聖書箇所 イザヤ書52章13節~53章12節
イエス・キリストが来られる!
片山 寛
アドヴェントとは、ラテン語で「到着」「接近」を意味するadventusから来た言葉で、キリスト教の伝統では、主イエス・キリストの降誕が近いのを待つ「待降節」のことと、終りの日にキリストが再臨なさるのを待ち受ける「再臨待望」の二つのことを意味しています。この二つの意味は重なり合ってもいて、私たちはこのクリスマスの時期、幼子を待つと同時に、終末の主の到来をも待っているのです。
「待つ」、それはキリスト教にとって本質的な、私たちの生き方そのものなのです。次のような小さな話があります。
キリスト者のアドヴェントの顔
「ここでちょっと待っていてください」私はその目の不自由な人にそう告げて、彼を大都会の駅構内のコンコースにひとり残した。私は彼が、駅の窓口や案内所や時刻掲示板や郵便局などに行く途中で雑踏にもまれるのを節約してやろうと思ったのである。彼の用事をすませて帰りに、まだ遠くの方から、彼が一人立っているのが見えた。人々は彼のそばを急ぎ足で通り過ぎてゆく。一人の子どもが彼を見つめている。荷物を載せた台車の列が彼をよけて走る。一人の新聞売りが彼に近づき、新聞はいらんかねと声をかけ、彼が目の見えないのに気がついて、恥ずかしそうな表情でまた遠ざかってゆく。その間、目の不自由な彼は全く静かに立っていた。私もまたほんの数刻、立ち止まって彼を見ていた。私は彼の顔の表情を見つめた。自分の回りの足音や、聞き慣れぬ物音や、盛んに走り回る台車の騒音、それらは彼にとっては何の意味もないかのように、彼は静かに立っていた。彼は待っていたのである。それは、実に我慢強い、信頼に満ちた、精神を集中した待機であった。彼の顔には、私がもう帰って来ないのではないかというような疑いは、毛ほども浮かんでいなかった。そこには、自分の手をとってくれる人が必ずもう一度現れるという、驚くべき喜びが現れていた。私は自分の目を閉じて、この印象深い待つ人の顔を見つめることをやめた。その時私はようやく悟った。キリスト教徒が救い主を待望する時の顔は、本来このような顔なのだと。
Kurzgeschichten II, 5