【説教音声ファイル】
2025年2月2日説教要旨
聖書箇所 フィリピの信徒への手紙2章12~18節
キリストの日に
原田 寛
技術的な進歩により社会のあらゆるものがスピード化して便利になりました。経済的には豊かになり、多くの人がコンピューターをあやつり、便利なスマートフォンを駆使して個々人で情報を集めることが可能になり、情報発信することもできるようになりました。しかし、その一方でそれらの技術を管理し、様々な競争現場を勝ち抜いていくことが求められるようになっています。身体も鍛えれば進歩します。精神も鍛錬によっては強化でき、様々な現場に対応する力を有することができるようになると言われています。しかし、人は、生身の心と身体をもつものであり、予期せぬ事故や人生の様々な出来事などにより、ストレスをもつことになるものです。
投獄されたパウロと共にあるフィリピの教会は、言いようのないストレスを抱えこみ、いろいろな心配事を生み出していったことでしょう。そのストレスは、フィリピ教会に「不平や理屈」を生み出しました。そんな教会にパウロは、「従順に・・・自分の救いの達成に努めなさい」と言います。救いはパウロによらずイエス・キリストによって与えられます。あなたの心を十字架に付けられたイエス・キリストに向けなさいと教えています。そして、その方があなたがたの内に働いていると示します。投獄中のパウロを支援したフィリピ教会の奉仕は、パウロの手紙を通じて歴史の大きな事柄として2000年後の全世界に証されているのです。
「キリストの日」と言われています。神のみ子イエス・キリストが再臨し、新しい天と地に選ばれた者たちが入れられる日と考えられています。キリストの日に誇るというのは、この世にあっては、自分がどのようになっていくかはっきりしないが、その日にははっきりすることになるということでしょう。主イエスを信じて歩んできた証がこのようにあると明確になるということです。
フィリピ教会のストレスの中心になっているパウロは、自身の投獄の意味について、「礼拝における献げもの」と結びつけています。福音宣教者として死ぬことを「喜び」としているということです。パウロの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。と示しているように思います。そして、それは、過重なストレスの道を「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができる」といって向こう側にある主イエスによる「喜び」に繋がっています。
「私たちは、キリストの日に何をもって臨みますか。」