【聖書箇所】
【説教音声ファイル】
2019年5月5日
聖書箇所 ローマ人への手紙 1章 1節~3節(前半)
パウロ ― キリストに全面服従の人
瀬戸 毅義
ローマ帝国の首都ローマにパウロは未だ足を踏み入れてはいませんでした。パウロの伝道旅行は西暦46年~67年頃です。本書簡の執筆は西暦57年頃です。ローマの教会はパウロには未見の教会でした。彼が先ず自己紹介をしたのはそのためです。さらに自分が命を賭けて伝えている福音について説明しました。
ラテン語でMagnum opusという言葉があります。大作、代表作、畢生の大事業(great work)の意味です。ローマ人への手紙は文字通り、使徒パウロのMagnum opusです。この手紙は人類の歴史に多大の影響を与えました。アウグスティヌス,ルター(ルーテル)ティンダル、ウェスレー、バニヤンなどの偉大なクリスチャンもこの手紙から大きな影響を受けました。
パウロは自己を紹介するのに「イエス・キリストの僕(しもべ)」といいます。ある英訳聖書では「Paul, a bondservant of Jesus Christ」(NKJ)としています。僕(しもべ)のギリシャ語は(ドゥーロス、奴隷)です。ここでは自らの意思で主なるキリストに一生を捧げて奉仕する人という意味。パウロは他人に諂うような人間ではありません。パウロは次のように昔の自分を回想します。
わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。(ピリピ人への手紙3:6-8 口語訳)そのような誇り高いパウロが自分はキリストの「僕」であると言い切っています。
当時皇帝所有の奴隷に対し、自分はキリストの奴隷だといいました。罪の奴隷であったのに、キリストに贖われて自由となりました。私たちも再び奴隷に逆戻りしてはなりません(ガラテヤ5:1、ロマ6:17)。当時一旦自由を得たものを再び奴隷に戻すことは厳禁でした。クリスチャンは罪の奴隷になるのではなく、キリストの心のままに忠実に働くものとなるのです。
連休の間に、妻と犬をつれて3人(二人と一犬?)で、筑紫野市にある武蔵寺(ぶぞうじ)にでかけました。おだやかで良い天気でした。静かで穏やかな寺です。私は境内にある礼拝対象物(カミやホトケの名前など)を数えました―そういうものを数えるのは牧師のワルイクセですが―。20はあったと思います。私はお寺や神社を大切に思います。そこを大切にしている人々の心を大事にします。これはクリスチャンの取るべき態度だと思っています。しかしながら、神様はそんなにたくさんいるのでしょうか。聖書は真の神はお一人だと明言します。その神様が世界中の人々を造ってくださいました。太陽は一つです。一つの太陽が世界中の人々を照らしています。この国、あの国のために各々の太陽があるのではありません。同様に、世界中の人々をお創りになり恵みを与えてくださる神様はお一人なのです(使徒言行録17:22-29)。パウロは、ローマ帝国の都、ローマにすむ人々にその真の神様と、その一人子イエス・キリストについてきちんとお話をしたい、述べ伝えたいと心を燃やしてこの手紙を書きました。
『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』(日本キリスト教文学の古典)に以下の話があります。天地を造られた真の神様を知って大きく変えられた著者青年時代の生き生きとした経験です。
真(まこと)の神を知る
新しい信仰の実利はただちに私に明らかになりました。全力をあげて入信に抵抗していたころから、すでに私はそれを感じはじめていました。宇宙にただ一つのカミしかなく、私がそれまで信じていたような多くの―八百万を越す―神はないことを教えられたのであります。キリスト教の唯一神信仰が、私の迷信の根を、すっかり断ち切ることになりました。私のなしたすべての誓いと、怒りっぽい神々をなだめるために試みたさまざまの礼拝形式とは、このただ一つのカミを認めた結果、いまや無用になりました。私の理性と良心はともに、これに「しかり!」と賛意を表したのであります。カミは一つであり多数でないことは、私の小さな魂にとり文字どおり喜ばしきおとずれでありました。もはや東西南北の方位にいる四方の神々に、毎朝長い祈りを捧げる必要はなくなりました。道を通り過ぎるたびに出あう神社に長い祈りをくり返すことも、もう要らなくなりました。今日はこの神の日、明日はあの神の日として、それぞれ特別の誓いと断ち物とを守らなくてもよくなりました。頭をまっすぐに立て晴れやかな心で、私はどんなに昂然と次々と神社の前を通り過ぎて行ったことでしょう。私を支え見守る神々のなかのカミを見出したのですから、もはや祈りを唱えなくても罰のあたることはないのだ、との確信に充ちていたのでありました。友人たちは、たちまち、私の気分の変化に気づきました。それまでの私は、神社が見えるとすぐに心の中で祈りを唱えるために、おしゃべりをやめていたのです。ところが、登校の途中もずっと楽しそうに私かおしゃべりを続けているのが、友人たちにはわかったのでした。私は「イエスを信ずる者の契約」に署名させられたことを後悔しませんでした。唯一神信仰は私を新しい人間にしました。信仰による新しい精神の自由は、私の心身に健全な影響を及ぼしました。勉強には前よりも集中できました。
(『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』内村鑑三著 鈴木範久訳 2017年 岩波文庫より)。