【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2021年2月7日説教要旨
聖書箇所 ダニエル書5章5-9節、24-27節
メネ・メネ・テケル・パルシン
瀬戸 毅義
今朝は旧約聖書ダニエル書5章からメッセージの聖句を選びました。正しい真の神様を拝まない国は、どんなにそれが大きな国であっても滅びてしまうということを知っていただくためです。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。(出エジプト記 20章4節)
すると気味の悪いことが起こりました。王宮の白い壁に人間の手の指が現れて、何やら文字を書きました。それを見て王の顔色はまっ青になりました。
さっそく祈祷師や星占い師など、王の側近が呼び集められました。ところが誰一人としてその壁の字を読むことができません。みんな困り果てていると王妃がダニエルのことを王に教えました。ダニエルは父のネブカドネツァルがユダヤの国を攻め滅ぼした時、ユダヤの国から連れて来たユダヤ人でした。連れてこられたときは若々しい青年でしたがもう老人になっていました。
王に呼びつけられたダニエルは、誰も読めなかったその字をすぐに読み解きました。壁の字はメネ・メネ・テケル・パルシンと読むのです。メネは「数える」という意味でした。「テケル」は量を測る」という意味でした。「パルシン」は「分けられた」という意味でした。ダニエルは王に向かいその意味を解き明かしました。「あなたの政治(治世)は数えられ、秤にかけられ、不足していることがわかった。それゆえあなたの国は二つに分裂するのです」。つまり「王様よ、あなたと国の命運は尽きたのです」という厳しい内容でした。メネ・メネ・テケル・パルシンは傲慢な独裁者ベルシャツァル王の終りを告げる言葉でした。
キリスト教では2月11日を、とくに「信教の自由を守る日」と言っています。それは信教の自由がなかった時代のこのような苦しみを忘れないためです。
戦後日本国憲法第二〇条は「いかなる宗教団体も国から特権を受け、また政治上の権力を行使してはならない」とあり、これからは国や公共団体はどんな宗教にもえこひいきをしてはならないことになりました。紀元節や教育勅語において天皇は神であるかのように教えられていた頃と比べると大きな違いです。
信教の自由がなかった頃に、クリスチャンであるがためにひどい目にあったお話をして終わります。
1891(明治24)年の1月9日、東京の第1高等中学校(一高)で教育勅語奉読式のため、教授60名、学生一千名以上が倫理講堂に集まりました。教授・生徒は5人ずつ進み出て、壇上にあがり勅語の晨署(しんしょ)(明治天皇の署名)に奉拝することになっていました。その中に前年の九月に嘱託教員となったばかりの31歳の内村鑑三がいました
内村はこのようなものものしい雰囲気の中で、勅語の最後にある明治天皇の署名に礼拝的低頭をせよと命じられました。ちょっと頭をさげましたが、最敬礼はしませんでした。これがいわゆる「不敬事件」と言われるものでした。
内村鑑三は封建社会の終り頃19世紀の後半に生まれましたので、とくに教育勅語の内容に反対したのではありません。彼は札幌農学校以来、礼拝の対象として「ただお一人の神様」を信じていました。彼にとって天皇は神ではなく、もちろん礼拝の対象などでもなく単なる一人の人間でした。不敬事件のもとはここにありました。
この不敬事件は生涯消えることのない深い傷を内村の心に与えました。内村鑑三は依願退職となり、第一高等中学校(現在の東京大学)に辞表を出しました。在任わずか5ヶ月でした。
苦しみはなおも続きました。彼は肺炎にかかりました。妻の加寿子はこの事件のあと、それに引き続いた夫の看病に疲労こんぱいし、肺炎になりわずか三ヶ月の病床生活のあと天国に行きました。加寿子は23歳でした。内村の苦しみはこれだけに終りませんでした。日本中の新聞で国賊、不忠、不敬とののしられました。日本の国を深く愛していた内村鑑三にとって、そのような言葉で非難中傷を受けたことはどんなに辛いことだったでしょうか。この時の彼の心中は彼の著書『基督信徒の慰め』に書かれています。
54年後の1945年日本は戦争に敗れどん底に落ちました。
1948/昭和23年6月19日、衆参両議院で教育勅語の排除と失効の決議がありました。「思うにこれらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損い、且つ国際信義にたいして疑念を残すもととなる……政府はただちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完うすべきである。以上決議する。」
不敬事件の騒ぎより54年後に神の正しい裁きがありました。