【聖書箇所朗読】
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2019年10月13日説教要旨
聖書箇所 創世記25章27~34節 ローマの信徒への手紙9章11~16節
ヤコブとエサウ
瀬戸 毅義
さまざまの人物が聖書に登場します。道徳の教科書の例話の手本にできるような人間像が描かれているのでしょうか。理想の人間像が解れば、聖書を理解するのに大きく役立つはずです。今朝はヤコブとエサウという二人の人物を取り上げてみましょう。
双生児ヤコブとエサウの伝説は創世記25章に記されています。この双子はアブラハムの子といわれたイサクの妻リベカの胎内から生まれました。ヤコブは先に生まれたエサウのかかとをつかんで生まれてきました。「ヤーコーブ」は「踵(くびす・かかと)をとる者」という意味。つまり「前に行く奴をひっくり返して道に落ちている金貨を自分が取ってやろうという、そういう態度を象徴している」のです(渡辺善太)。
創世記25章(29-34節)をごらんなさい。ある日ヤコブはパンとレンズ豆(パレスチナの重要な食品)の煮物を作っていました。野から戻り飢え疲れていたエサウは、うまそうなその煮物と引き換えに掛け替えの無い長子の特権をヤコブに渡してしまいました。関根正雄訳で少し読んでみましょう。『今日あなたの長子の権利をわかしに売って下さい』。エサウが言うには、『ああ、わたしはもう死にそうだ。長子の権利などがわたしに何の足しになるものか』。ヤコブは、『さあ、まず誓いなさい』と言ったので、エサウはヤコブに誓った。このようにしてエサウはその長子権をヤコブに売ってしまった。ヤコブはエサウにパンと豆の御馳走を与えたので、エサウは食べたり飲んだりしてから立ち去った。このようにエサウはその長子の権利を軽視したのである」。(31-33節)
その時代、長子の権利(文語訳・家督の權)があれば財産分与も有利でした。日本の旧民法に「家督」という言葉がありました。「家督相続」(かとくそうぞく)とは、家の跡目を相続すること。旧民法では、戸主の死亡・隠居などに伴う相続、すなわち戸主権を受けつぐことでした。
長男は、財産と一緒にその家の歴史と伝統のすべて、宗教などのすべても受け継ぎました。
イサクの家にはアブラハムから特に神の祝福という尊いことが伝わっていました。それは神の祝福の約束でした。(創世記17:7、8)エサウもそのことは父イサクから聞いていたに違いありません。しかし、彼には聞いただけの神の約束、祝福などはどうでもいいことだったのでしょう。将来のこと、宗教のことよりも、腹が減ったという目の前の現実を優先させました。
「5年たったら後に君に、10万円やろう」こういわれたらどうですか。「5年たったら?先のことは結構。今晩一杯やりたいから、1万円を今ください」です。「末の百より、今50」。この人間的な気持ちを正直に実行したのがエサウでした。彼の人柄がよく描写されています。弟のヤコブは、そういう兄の性格をうまく利用しました。長男のエサウが受け継ぐべきものすべてを手に入れました。
ヤコブとエサウの仲たがいの例は他にもあります。たとえば、ヤコブは父イサクの死に際に兄になりすまし、父からの祝福を受けました(創世記27章)。
考えてみれば、性格的にはさっぱりとし、どこか抜けているエサウの方が、人間的な魅力があり交友関係でも周りからは好かれたのではないでしょうか。他方のヤコブのやり方は、汚いように思われますが、どうでしょうか。
ところが聖書は驚くべきことを記しています。「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」(ローマ9:11-13)。神はヤコブを選び、エサウを選びませんでした。どうしてだろうかと私たちは思います。聖書に直接の答えはありません。
しかし一つだけ言えることはあります。ヤコブは人生の危機に際し、いかなる時も、神の前にすべてをさらけだしました。別の言葉で言えば、どんな時にも信仰が第一でした。
聖書からその箇所を確かめましょう(創世記28章)。長男のエサウと衝突したヤコブは家に居れず旅に出る事になりました。自分の犯した行為への悔いと反省。失意の彼はその旅を通して成長したのです。人は、自分の家や故郷を離れて自立していきます。
さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」(創世記28:10-17 口語訳)。
こういってヤコブは神を礼拝したのです。彼は人生の危機に際しても、苦しい時にも、神の前にすべてをさらけだしました。別の言葉で言えば、信仰を持ち続けました。エサウは現実的であり、目の前のことを優先させました。他方ヤコブは、現実を超えて理想的、宗教的、信仰的でした。
ダビデとサウルについても同様なことがいえます。サウルはイスラエルの初代の王でした。ダビデは彼の臣下(家来)でした。ダビデは自分の配下の者の妻を奪いました。配下のウリヤを死に至らしめ不義の子までもうけました。サウル王はそういう悪をしていません。
それにも関わらず、サウル王は捨てられ、ダビデは祝福され用いられました。救い主の先祖となりました。皆さんもよくお考えになってください。このことがよくわからないと、聖書はわかりません。
サウル王は神から罪を指摘されたとき、罪を隠そうとしました(サムエル記上15:1-21)。ダビデは自分の恐ろしい罪を預言者のナタンから指摘されたとき、王座から降り伏して悔い改めました。「わたしは主に罪をおかしました」(サムエル記下12:13)。神はダビデを祝されたと、聖書は記しています。
ダビデのような人間は、道徳的、倫理的な立場からは受け入れられないでしょう。また理解もされません。ダビデは損得を優先させるのではなく、信仰第一です。どうしても、信仰がなければ、神様がいなくては生きていけないのです。ここに聖書の人間像を理解する鍵があります。
古き書物を読む。
以下は1900/明治33年9月の『聖書之研究』掲載の「聖書の話」の一部です。文章を現代仮名遣いにするなど変えてあります。古くても内容のある書物には読むべき価値があります。聖書は特に古い書物です。聖書の註解書も同じです。新しければ良いというものではありません。
先ずこころみにエサウとヤコブなる二人の兄弟の事について考えてごらんなさい。聖書には「我(神)はヤごブを愛しエサウを悪(にく)めり」(羅馬 ロマ9:13)と録(しる)してありまするから、私共はエサウとはさぞ悪人であって、ヤコブとはさぞ善人であるであろうと思いましょう。しかしそれは正反対でありまして、エサウとは至って正しい人でありまして、ヤコブとは不完全だらけの人でありました。兄のエサウを欺いてその家長権を奪いし者はヤコブでありました。ハランの地に行きて伯父ラバンの家に客たりし時に、一つの策略を設け主家の綿羊数多(あまた)を己がものと為せし者も又ヤコブでありました。又、年を経て故郷カナンに帰り来ました時に兄エサウの復讐を懼(おそ)れて進み得なかった臆病者も又このヤコブでありました。然るにエサウは如何(いか)にというに、甚だ独立の人でありました。ヤコブは伯父の家に羊を飼いし時に、彼エサウは野に獣(けもの)を狩いました。ヤコブは伯父の承諾を得ずして故郷に逃げ帰りしに、エサウは土地の女を娶(めと)り立派な豪族となりました。然るに神は特別にヤコブを愛し、彼にイスラエルとて「神と争う」なる名を与え、彼の子孫に全世界を救うの名誉職を賜わりました。こういう事は実に世間普通の眼を以て見ました時には少しも解し得ない事であります。殊(こと)に胆力とか潔白とかいうことを以て非常に貴い道徳のように思うている日本人に取りましては、エサウはヤコブに勝(まさ)りはるかに上等の人物でなければなりません。
然しながら聖書の人生観から見ましたならばヤコブは矢張りエサウに優る人物でありました。弱点は多くありましたがヤコブは神に頼る人でありました。独立を愛せしエサウは自信力の強い人でありました。彼は何事も自身の思うがままに行った人でありました。神がヤコブにイスラエル即ち「神と争う」の名を給わりましだのは実にヤコブのこの愛すべき性質を認められたからであります。彼ヤコフは事を為すに自身でこれを行うの胆力なく先づ祈祷を以て神と争い神の援助を得て後、始めてこれを為し遂げることが出来ました。これに反してエサウは世の謂所(いうところの)英雄であります。彼は神とか祈祷とかいう事には余り頓着せず、ただ断々乎(だんだんこ)としてその所信を貫くとか申しまして、少しも女々しい所のない男でありました。それでありますから、もし東洋人の眼を以て評しますればエサウは英雄でヤコブは意気地のない奴であります。然しながら聖書の理想的人物はヤコブの如き者でありまして、エサウの如き者ではありません。
(出典・『内村鑑三全集8』「聖書の話」1900/明治33年9月)