【聖書箇所】
【説教音声ファイル】
2019年4月28日
聖書箇所 使徒行伝 16章 11節~15節
ルデヤ―主が心を開いた
瀬戸 毅義
ルデヤ(リディア/新共同訳)は、自立的なしっかりとした女性でした。名前の由来は彼女の生地から来ています。彼女はテアテラのルデア地方出の女性でした。テアテラは黙示録の7つの教会の一つです(録2:18)。テアテラにはユダ人居留地があり染色業者が多くいました。彼女は常日頃ユダヤ人の宗教に強く惹かれており、その生き方に共感するものがあったのでしょう。「神を敬う」は、ユダヤ教への準改宗者(モーセの掟を守る義務はありませんが)です。テアテラは紫染料の産地として有名でした。彼女は当時広く知られたその紫布を手広く扱う女商人だったのです。寡婦だったと思われます。当時ローマとその植民地ではこの織物に大きな需要がありました。古代ローマ市民が用いたトーガという白いウールの外衣にも使われました。英語で「royal purple 青みがかった紫」という言葉がいまもあります。ルカ福音書には「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた」(16:19節)とあります。彼女は商いのためピリピ(フィリピ/新共同訳)に滞在していたのです。自宅を持つ程ですからお金も持っていたのでしょう。パウロが第2伝道旅行(紀元前49年から52年)でピリピの町に滞在したときルデヤとの出会いがありました。人の出会いとは不思議なものです。凡ては神の導きです。ルデヤはパウロの語る福音を真剣に聞きました。「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた」(14節)。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」(ルカ24:45)とあります(ギリシャ語では同一の動詞です)。弟子たちの心も開いて聖書を分からせてくださいました。主は人の心を開いてくださいます。
彼女はパウロのヨーロッパ伝道の初穂となり、彼女の自宅はピリピの家の教会になりました。パウロはピリピ人への手紙(西暦61年頃)でルデヤのことは何も記していません。ルデヤはもはやピリピの町には住んでいなかったのか、すでに亡くなっていたのかもしれません。
以下は、アメリカのフィラデルフィア発行の「日曜学校タイムズ」に掲載された記事を内村鑑三が訳し、『聖書の研究』(1917/大正6年4月)に掲載したものです。
孔子とイエス
ある日本の男爵(註1)がフィラデルフィアのベタニア日曜学校に出席し通訳を介して一言感想を述べるところがあった。彼が、「孔子の教えとイエスの教えとは同一である。ゆえに余は余の信仰を変ずるの必要を見ない」と言いし時、校長たるジョン・ワナメーカー君(註2)は、来賓の口よりかかる言を聞いて驚愕した。この男爵は、数月前、教育制度視察のために米国を訪(おとな)いたる人である。
ワナメーカー君は人も知るごとく、米国屈指の実業家たるとともにまた老練なる日曜学校指導者である。彼は今自己の学校においてかかる異教の弁護論に接し、やむを得ず立ちて、そのせつなの感想を吐露した。彼はまず孔子の説きたる道徳の高きを承認したる後、語を続けて言うた。
孔子とイエス・キリストとの問にはこの根本的相違がある。孔子は死んで葬られ、しかしてイエス・キリストが彼に起きよと告げたもうまで、墓の中に横たわっているのである。しかしキリストの墓は空虚(むなし)くある。彼は生きていたもうのである。彼は今日この所この室(へや)にいたもうのである。
しかしてそのボケットより小さき聖書を取り出して、ワナメーカー君は甚深なる感動をもって付言した。
いわく「ここにイエスの言(ことば)がある。これは生ける言(ことば)である、われらは生ける言をこの書の中に読むことができるのである」と。男爵は米国を去るに先だち、ニューヨークにおいて、ある宴席に列した。多数の日曜学校指導者も出席しておった。滞米中何を最も強く感じたかとの問いに対して、日本の儒教信者たる男爵は答えて言うた、「最も深き印象を受けたものは、フィラデルフィアのベタニア日曜学校における出来事である。ワナメーカー君が熱心にキリストの弁証をなして、小さき聖書を取り上げた時に、余は彼が生ける主を慕うのあまり、その双頬(そうきょう)に熱涙の流れ下るを見た」と。
編者言う。この場合において、余輩(内村鑑三のこと)は男爵に反対して、ワナメーカー君に賛成する。君はよくキリスト教の根本義を明らかにしたのである。
(岩波「内村鑑三全集」23巻。)
註1 渋沢栄一(1840—1931)初め幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営、製紙・紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業設立に関与。引退後は社会事業・教育に尽力。 2024年、新1万円札の肖像画(報道による)。
註2 Wanamaker, John(1838-1922) アメリカの実業家。大百貨店を創立し、商業において近代性と理想主義を結び付けた。郵政大臣にもなる。日曜学校に熱心。建てた日曜学校の一つは生徒4千人を数えた。世界日曜学校の会長、YMCA事業にも活躍した。(「キリスト教大事典」)