「主は言われる、わたしが、あなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。
それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、
あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」エレミヤ書29章11節
私は現在56歳ですが、思春期に発病した「過呼吸」の病と約40年も付き合っています。皆様の温かいお祈りのお陰で、今日も礼拝に出席出来たことを心より感謝して、主の御名を崇めます。
私はこれまで、命にかかわるような大きな災難に二度遭っています。一度目は、中学1年生の時にタクシーに撥ねられた交通事故です。頭を打撲して数日間意識不明となった大事故にもかかわらず、私は生かされました。その時の主の憐みを思い出すようにでしょう、私の身体には後遺症が残り、現在も腰と膝が曲がったままです。もう一つの災難は、約20年前に西宮市で阪神大震災に遭ったことです。震災のあと暫く沈み込んでいた私は、冒頭のみ言葉によって、生かされた意味を考えさせられ、心に落ち着きを取り戻すことができました。
二度も生かされた私の場合、まだ神の愛を伝えていく使命が与えられているのかもしれないと思いました。それは、何の予告もなく突然襲ってくる事故や天災や病気がもたらす死、その死に勝利する備えをしておく重要さを伝えることでした。死への唯一の備え、それは「私たちの罪のために十字架の死を遂げてくださり、その死に打ち勝たれたイエスさまを信じ、父なる神さまにつながる」ということです。
聖書によりますと、人のいのちは切花と同じで、母の胎内を出た時から死に向かっています。放置すれば、その切花が枯れるように、人は必ず死んでしまいます。死なないためには、いのちの源である永遠の神さまに接ぎ木されなければなりません。イエスさまを信じて、私たちの造り主である神さまにつながっていれば、肉体はいつ死んでもそこから永遠のいのちが始まります。イエスさまを信じる人は死んでもまた生きることができ、イエスさまと永遠に一緒にいることができるのです。私自身「イエスさまを信じて永遠のいのちにつながるなら、死の恐怖にも勝利して復活の希望にあふれた日々を過ごせる」と信じています。
震災の翌年、神さまの御計画は私が思い描いていた計画とは違って、福岡のミッションスクールに身を置くことだと恩師を通して知らされました。福岡での生活は何年もの間、言葉にも仕事にも慣れませんでしたが、神さまが置いてくださったところは恵みと祝福に満ちていると信じて、忍耐してみました。
福岡に導かれて今年で19年目になります。日々イエスさまが共にいてくださることを体感するにつれ、人生は自分の思い通りではなく、ただ神さまの御旨のご計画だけが成ることを知るようになりました。その主のご計画は、災いではなく信じる者に平安や希望を与えるものでした。弱く罪深い者ですが、万事を益としてくださる(ローマ8:28)神さまに感謝します。
(2014年11月9日 主日礼拝での証し)
筑紫野南キリスト教会員 斉藤芳彦