【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2021年6月6日説教要旨
マタイ12:15-21
主のなされた伝道法―争わず、叫ばずー
瀬戸 毅義
このお話をする前に自分が救いに招かれた時のことを振り返りました。私は金沢市の郊外に生まれました。現在の金沢市国見町です。そこは今も山村です。季節の移り変わりが、はっきりしている風光明媚なところです。そこから山道を歩いて学校に通いました。上級生(五年生以上)になると往復20キロぐらいは歩いたと思います。比較的健康な身体を与えられたのはそういう環境だったからだと両親に感謝しています。両親にはもう地上で会えませんが、心から感謝しています。中学3年生の時、家が金沢市内に移ることになりました。家の近くに金沢キリスト教会(その頃は伝道所)ができました。それがキリスト教との出会いの第一歩でした。
幸いに家族の寛容もありそこで1956年高校一年16歳のとき、バプテスマ(洗礼)を授けていただきました。牧師は宮地治先生です。そのときに教会で特伝があったのです。講師はアメリカ人の宣教師でした。説教の最後に招きがあり、その時に応じました。その宣教師のお名前が記憶の中ではっきりしないのです。E.Bドージャー先生だったのではないかと思いますがはっきり覚えていないのです。ドージャー先生は何回か特伝講師として金沢キリスト伝道所に来られました。
講師の招きに応じたのですが、無理に教会の誰かに折伏されたのではありませんでした。私は宗教や進路のことで親や兄弟から無理に強制された、説得されたということはありません。このことは本当に感謝しています。
皆さんも、自分の子供や他人に、熱心さのあまり信仰を無理強いするようなことをなさってはいけません。勉強なども同じでしょう。勉強せよ、勉強せよ、といつも子供にいうと本当に勉強好きになるのか、というとそうではありません。反対にしないようになるものです。自分からするようになるのを待つことが大切だと言われます。
キリストの伝道法を調べますと、押しつけがましいところは見られません。自己宣伝的なところも全くありません。
たとえばマタイ8:4を見るとイエスは言われます、「だれにも話さないように、注意しなさい」と。沈黙をお命じなった理由はさだかではありません。おそらく、世間の評判となって、ご自分の真の使命-霊魂の医者-達成の妨げになることを恐れたのでしょう。彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない(12:19 )。そのように主は歩まれました。
これが主の伝道法でした。都会風というよりも田舎風です。
もちろん、いっさい伝道してはならぬ、人に見せてはならぬ、宣伝をしてはならぬということではありません。私もそういう特伝といわれるものにより信仰にはいる決心をしたのですから、そういうことを否定しません。
今朝の聖書箇所で、マタイは旧約聖書のイザヤ書の42章1節から4節の言葉を引用します。ここはいわゆる「主の僕」記録の部分です。
マタイはこの預言がイエスにおいて成就しており、イエスがメシア(救世主)であることを証明しようとしたのです。
19節20節は以下のようにまとめられます。
- 彼は人と争わず大声を上げない。(町の真ん中で人目に付くような伝道をやらない)。
- 偉い人に道を説かない。貧乏人や病人、罪びと、他人から疎んじられている人々に道を説く。傷ついてまさに折れようとする葦のような人のこころ、油がまさに尽きようとするともしびのような人のこころを助ける。
- 最後に神は彼によって正義をなされる(20節a)。
- そこに人類の希望がある(21節)。
主はヤコブの井戸の傍らで、サマリヤの女に語られ、来病人シモンの家の客となりました。できるだけ目立たない方法で道を説かれたのです。深い愛と祈りは必要ですが、平和な方法です。私たちはここに大きな慰めを得るのではないでしょうか。
私は矢内原忠雄の信仰にいつも教えられるのですが、彼は次のようにいいます。
人の心は自由である。信仰を伝える上においても、また信ずる上においても、自由でなければならない、たとえいかに善いものであっても、これを強要することは、人の自由に対する強迫であって、伝道者の取るべき態度でない。
伝道者はただ自己に示された神の真理を、静かに、自由に宣べるにとどめるべきであって、人が聴くことを欲しなければ、これを強いるべきでなく、聴いた人の心における御言の成育は父なる神にゆだねるべきであって、伝道者が立ち入って干渉すべき事柄ではない。伝道者が神の権威を笠に着て、弱き信者にことなる福音の強要をすることは、人間の自由に対する最大の圧迫であって、神の憎み給うところである。
(『嘉信』第15巻第11号、1952/昭和27年。矢内原忠雄全集17巻412頁)