【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年10月2日説教要旨
聖書箇所 詩編23編
主は我が牧者なり
瀬戸 毅義
詩編23編は詩編の中でも最も愛唱されるものです。この詩編はヤーウエに対する信頼の詩です。
「主」は真の神(ヤーウエ・ADONAI)のことです。ヤーウエ「主」を信頼するとはヤーウエが最後まで導き、守り支えてくださることを信じて我らの生涯を歩み通すことです。或る英訳聖書ではADONAI is my shepherd(Complete Jewish Bible)とあります。わたしの牧者の「わたしの」を明記しない訳がありますが残念です。
牧者は牧畜の世話をする羊飼い、牧羊者のこと。羊飼いの仕事は簡単なものではありませんでした。何ヶ月も野宿することもあり、盗賊、野獣との遭遇対決もありました。文字通り命を懸けた仕事でした。聖書には牧者についての言及は多くあります。例えばヨハネ10:11には「わたし(イエス・キリスト)はよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」とあり、へブル人への手紙13:20には「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエス」とある。またイザヤ書40:11には「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。」とある。み言葉のように、主は私たちを命がけで守り導いて下さいます。
今日の礼拝は、先に天に召された方々を憶える時であります。これらの兄弟姉妹はみな主に導かれ立派にその生涯を終えられました。
牧者なる主は兄弟姉妹の現世の地上の歩みだけではなく、来世にいたるまで、信仰の完成に至るまで導いてくださるのです。
使徒パウロは来世の希望を「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」と表現しました(コリント第2 4:18)。また「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである」といいます(テモテ第2 1:10)。
私は矢内原忠雄の信仰から多くを学びましたが、以下もその一つです。
来世の希望
我が肉体衰えて死の目前に迫る時、我を支えるものはただ来世の希望である。
我が愛する者死の床に横たわるを見、我が身を棄てて彼に代わらんと欲するも能はざる時、我を支えるものはただ来世の希望である。
我が妻死し、我が夫死し、無限の空虚我が足下よりひろがる時、我を支えるものはただ来世の希望である。
肉欲の習慣我を縛り、我の日々の清からんことを欲して能わざるを知る時、我を支えるはただ来世の希望である。
世に正義と平和と行われず、我が生涯の努力の嘲けらるるを感ずる時、我を支えるものはただ来世の希望である。
かの時まで我らは泣く。我らに涙を禁ずるも無益である。我らの涙は洪水の如くに溢れて、浅薄なる人間的慰藉の堤防を押し潰す。
かの時には、我らは愛する者と会いて再び別れないであろう。かの時に、我らは神の栄光に化せられ、神の国は地に成るであろう。かの時、すべての涙は我らの目から拭い去られるであろう。矢内原忠雄『嘉信短言』1941/昭和11年。全集17巻