【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年2月20日説教要旨
聖書箇所 マルコによる福音書8章27〜38節
主を告白するものの責任
西南大学神学部
才藤千津子
私たちの教会共同体を建て、導いてくださる神に対して、私たちはどのように応答してゆくことができるのでしょうか。イエスの弟子たちもそうであったように、迷いと無理解、人間的な弱さの中にある私たちは、どのようにイエスに従っていくことができるのでしょうか。
本日の聖書箇所において、イエスは、ガリラヤ地方から歩いて2、3日かかるフィリポ・カイザリアの村々に向かう途上でした。マルコによる福音書では、イエスはこの地で初めてご自分の十字架上での死について弟子たちに話をしております。フィリポ・カイザリアは、ユダヤ人の王が時の権力者であったローマ皇帝に媚びて神殿を作った町です。そのような場所で、イエスは、本当の神について、自分の使命について、弟子たちに教えられたのです。
その地への旅の道すがら、イエスは弟子たちに、「人々は、わたしをだれだと言っているか。」と尋ねられます。弟子たちは答えます。「バプテスマのヨハネだと、言っています。またエリアだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります。」そこで再びイエスが尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。」ペテロが答えます。「あなたこそ、キリストです。」(8:27-29)
キリストというのはヘブライ語ではメシア、「油注がれた者」という意味です。
イスラエルの伝統で、頭に香油を注がれて、神が与える特別な使命に生きる王、預言者、祭司などのことです。ここは、新共同訳では「あなたこそメシアです」と訳されています。当時、ローマ帝国の圧政に苦しんでいた人々は、いかなる政治的な権力にも立ち向かい、イスラエルの救いを実現する、偉大なメシア、救い主、成功を修める民族の王を求めていました。ペトロが「あなたこそキリスト、救い主です。」と答えたのは、民族の救いを求める弟子たち全員の切実な気持ちであったと思われます。しかし、イエスは、それを厳しく叱責されます。 「人の子」(=イエスご自身のこと)は、人々の期待とは反対に、この世の権力者から苦しみを受け、棄てられるというのです。ここでイエスは、全く新しいメシア像を示しました。これがイエスの「教え」でした。そして、イエスによれば、この人の子の受難を理解するものこそ、神を理解したものでありました。