【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年2月6日説教要旨
聖書箇所 ローマ7:22-25
二重人格の自分
瀬戸 毅義
もし神がわたしを救われたのなら、わたしがキリストを信じて古い過去の自分を捨てたのなら、なぜ今なお自分の心中に罪の戦いがあるのだろうか。理想の自己と現実の自己が分裂し苦悶するのだろう。これがパウロの真剣な問いでした。この箇所はパウロがクリスチャンになる以前のことを述べたのであるとする見方と、イエス・キリストを信じているにもかかわらず、なお罪と闘う生身の人間のことを描写しているとする見方があります。わたしは後者だと思います。罪の罰からときはなされ、自由になっているクリスチャンも、実際の生活では罪と戦っている自分を経験するのです。イエスも同じ経験をされました。
わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(ヘブライ4:14-16)
わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています(ローマ7:14)。これがパウロの正直な告白です。わたしたちも自分の内側を見ればパウロと違いません。理想に進もうとしてもできない自分があります。自分の内側に善をさせないもの、妨げるものがあり邪魔をするのです。どうしたらこの現実の煩悶から逃れ得るのか。パウロの答えはキリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則(8:2)によってでした。これはパウロの経験です。
佛教は罪をどのようにみるのだろうか。中村元著『仏教語大辞典』では、宗教的に非難される行為。例えば爪を長くしていること。説明は簡単です。
罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)などの言葉があります(「歎異抄」)。煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)という表現もあります。煩悩が火の燃え盛るようにはげしいこと。これらの言葉からこれが人間なのだ、仕方がないではないかという風に考えられがちです。
聖書は違います。人間と罪は宿命論的ではありません。聖書の求めるところ
は聖く高いのです。
わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい(レビ記11:45)。
I am the LORD, who brought you up out of Egypt to be your God; therefore be holy, because I am holy.
このようにはっきりと書かれています。これは私たちへの神の励ましの言葉でもあります。
旧約聖書では聖なる神、義なる神への信仰が中心です。故に世界のどの教、思想、文学よりも深く罪の問題を取り上げているのです。
新約聖書も同じです。新約聖書の罪(ハマルティア)もユダヤ人、異邦人を問わず凡ての人間の本性を決定するものであり、神からの離反、神への反逆としての罪です。全人類は罪の宣告の下にあり罪は普遍的(universal)です(ローマ1:18-3;20)。この罪がキリストの死によって贖われる。キリストを罪の克服者、救済者として告知するのが新約聖書の中心的使信です。
週報に人間の2面性・二重人格について書きました。私も若い頃、自分を考えると心に二面性がありました。二重人格、偽善者と思い苦しみました。わたくしのように平凡な人間なら、それは当たりまえかもしれません。人類に偉大な業績を残した大人物ならそういうことはないのでしょうか。いいえ、違います。
パウロは偉大な人物でした。そのパウロ自身が「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆いています(ローマ7:22-24)。
ダビデ王はどうでしょう。バトシェバという女性に心を奪われ大きな罪をおかしました(サムエル記下11章)。女性の美しさにつまずくのは世の男性の一面です。
モーセは人格円満で欠点の無い人のように思われます。民数記20章を見ると次の記事があります。民はチンの荒れ野でモーセに水を求めました。神は「岩に向かって水を出せと命じなさい」と言われましたが、モーセは岩を二度杖で打ちました。多分、民に腹を立てたのでしょう。つまり短気を起こしたのです。結果彼は約束の地に入ることができませんでした。偉大な人物にもそういう一面があります。
死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(ローマ7章25)。
信仰の持続が大切です。徐々にキリストにある信仰は人の心を変えるのです。信仰を持つとその人に変化があります。人を許せるようになった、喫煙飲酒の習慣を止めることができたなどのあかしもたびたび聞きます。