【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年8月21日説教要旨
聖書箇所 哀歌2章11節
亡国の記憶
瀬戸 毅義
哀歌は日本語聖書ではエレミヤ書に次に置かれていますが、ヘブル語原典では全く違います。
哀歌は第3部諸書(ケトゥビーム)のメギロース(巻物)に収められている。メギロースは5巻からなり、雅歌、ルツ記、哀歌、コヘレトの言葉(伝道の書)である。邦訳聖書の順序は70人訳に由来し、エレミヤを著者とする解釈に基づいている。
哀歌は後のユダヤ教会堂ではアビブの月(8月頃)9日、エルサレム滅亡記念断食の日に読まれました。哀歌は紀元前586年のエルサレム滅亡の後ほどなくして記されたものでしょう。のちに再建された第二神殿も西暦70年にローマ軍により破壊されました。
振り返ればユダヤ人は2回亡国の悲惨と悲哀を味わったことになります。ユダの人々は、シオンの山にヤーウエの優寵を誇りましたが、異邦人に蹂躙されました。都は灰燼に帰してしまったのです。貴族階級の人々も知識階級の人々も異国バビロンに移されました。昨日に変わる今日の変化はあまりに大きいものでした。この国家滅亡の大事件を見た時の悲惨と悲哀の描写が哀歌の内容となっています。
ヘブル語聖書では1章1節の言葉(エイカー)をこの書物の題名としている。エイカーとは「嗚呼(ああ)」の意である。挿絵は「エルサレム滅亡を嘆く人々」(ドレの聖書挿絵)。哀歌の作者はエレミヤ一人ではなく、エルサレム陥落前後の悲惨を記憶した人たちのものでしょう。著作年代は捕囚時代(紀元前589年以降)と考えられます。
エルサレムの滅亡はユダの国の罪の結果でした。また指導者たち、預言者たちの罪の結果でした。神は正義の神であり罪を見過ごしにはされません。いまそのことが他人のこととしてではなく自分のこととしてわかったのです。
ドラマや芝居を見て涙を流すこともあります。それはあくまでもドラマ、芝居の上でのことであり、まだ自分のことにはなっていません。哀歌はちがいます。国が滅びたこと、都が滅んでしまったことを自らのこととして後悔し涙にくれた記録です。
神はそのような国も人も捨てられません。また立ち上がらせて下さいます。3章にはつぎのようにあります。
3:18そこでわたしは言った、「わが栄えはうせ去り、
わたしが主に望むところのものもうせ去った」と。
3:19どうか、わが悩みと苦しみ、
にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。
3:20わが魂は絶えずこれを思って、
わがうちにうなだれる。
3:21しかし、わたしはこの事を心に思い起す。
それゆえ、わたしは望みをいだく。
3:22主のいつくしみは絶えることがなく、
そのあわれみは尽きることがない。
3:23これは朝ごとに新しく、
あなたの真実は大きい。
3:24わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、
それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
3:25主はおのれを待ち望む者と、
おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
(口語訳)