Message 65 斎藤剛毅
モーセは旧約聖書に登場する偉大な信仰的人物の一人です。エジプトの地で奴隷として苦しむイスラエルの民をエジプト王の圧政から開放し、60万の民をエジプトから脱出させる至難の業を成し遂げた大政治家であり、また神と深く交わり語ることが許された優れた宗教家でありました。モーセはこの出エジプトという大事業を信仰により、神の力によって成し遂げたのです。しかし、彼がエジプトから導き出した民は、モーセを悩まし続けました。エジプトの文化、習俗、太陽神や他の神々を拝み、偶像に満ちた社会のなかに生きていた彼らの心は、偶像礼拝に慣れ、快楽追求の物質文明の中ではぐくまれ、また卑屈な奴隷根性を植えつけられていたからです。
アブラハム、イサク、ヤコブの神は、その子孫であるイスラエルの民を愛し、彼らの先祖に約束された約束を守ろうとなさり、強い御手をもってエジプト王パロの虐げの手からモーセを通して贖い出されたのです。ヘブル人への手紙12章6節に、「主なる神は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を鞭打たれる」とありますように、神は40年の間、荒野においてイスラエルの民を訓練するために、苦しみを与え、色々な試練に遭わせ、霊性を高めて奴隷根性を叩き直そうとされたのです。しかし、その苦しみの中で罪深い不信仰な人々は本性を現しました。人々は試練の中でつぶやき、神の恵みの数々を忘れるという忘恩の罪を重ね、エジプトにおける過去の罪深い生活に戻りたいと執拗に願い、モーセを悩まし、神の怒りを引き起こしました。あまりにも罪深い人々は自分の罪の毒牙にかかって死んでゆきました。モーセはイスラエルの民の罪の問題と取り組み、悩み、苦しみ、そしてとりなしを続けたのです。
モーセは愛の人であり、祈りの人でありました。モーセはイスラエルの民と荒野で苦しみを共にしつつ、民の指導者として、民の真実の幸福を願い、彼らのために神の指導を受けながら法律を定め、神を畏れ敬い、隣人を愛する秩序ある社会形成のために全力を尽くしました。彼は偉大な神の愛の戒めを重んじ、民が戒めを守ることを願い求めました。それゆえに民の罪が神の前に大きなものとなり、神の裁きが民の滅亡という形で現れることを感じたとき、モーセは民のために真剣に祈る人でありました。荒野の生活の中で、モーセの兄弟アロンが祭司となり、宗教儀式を執り行う人となりました。イスラエルの民がシナイ山の麓に達した時、モーセは山に登り40日間真剣に祈りました。そして十戒を授かっていた時、モーセの帰りの遅いのを見て、民たちはアロンの所に集まって来て彼に言います。「私たちに先立って行く神を、私たちのために造って下さい。私たちをエジプトの国から導きのぼった人、モーセはどうなったか分からないからです」。
モーセがシナイ山から下りてこないことが、民の中に不安を呼び起こしたのです。アロンはモーセのように民を統率して、導く指導者とはみなされていなかったことが分かります。アロンは「私たちに先立って行く神はモーセにご自身を顕されたヤーウェの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。モーセは必ず下山するから待つべきです」とはっきりと語ることが出来ない弱さをもった人物でありました。彼は祭司でしたがモーセのような親密なヤーウェとの関係を樹立していなかったのです。
アロンは誘惑に負けて、民の要望に答えて黄金の子牛像を造り、祭壇を築いて拝み、犠牲の供え物をささげ、民は食い飲みして戯れたのです。主なる神ヤーウェはモーセに語ります。「急いで山を下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている。わたしはこの民を見た。これは頑なな民である。それで、わたしを止めるな。わたしの怒りは彼らに向かって燃え、彼らを滅ぼし尽くすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。(出エジプト記32章7-10節)
その時、モーセは主なる神をなだめて言いました。「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民に向かって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。エジプト人に『神は悪意をもって民を導き出し、彼らを山地で殺し、地のおもてから断ち滅ぼした』と言わせて良いのでしょうか。どうか、あなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされる災いを思い直し、あなたのしもべアブラハム、イサク、ヤコブに誓い、『わたしは天の星のようにあなたがたの増やし、わたしが約束した土地をあなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」(出エジプト記9:11-13)。
これは神に肉迫するモーセのとりなしの祈りです。申命記9章18節を読みますと、モーセは民を代表して悔い改め、40日間の断食をしたと記されています。「40日間主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった」とありますから、命懸けの悔い改めととりなしの祈りであったことが分かります。「それで、主はその民に下すと言われた災いについて思い直された」(19節)とあります。申命記の9章20節を見ますと、主なる神はアロンをも怒って滅ぼそうとされますが、モーセは兄弟アロンのためにも祈ったことが記されています。アロンもモーセのとりなしによって救われたのです。
申命記を読み続けますとイスラエルの民の不信仰が変わらず続いたことが分かります。9章24節には「彼らは主の命令に背き、主を信ぜず、また主の声に聞き従わなかった」とあります。主なる神が再び怒り、民を滅ぼそうとされた時、再びモーセは40日40夜、断食して主の前にひれ伏して、民のためにとりなし祈るのです。「主なる神よ、あなたが大いなる力をもって贖い、強い御手をもってエジプトから導き出されたあなたの民、あなたの嗣業を滅ぼさないでください。あなたのしもべアブラハム、イサク、ヤコブを覚えて下さい。この民の強情と悪に目を止めないで下さい。彼らはあなたの民、あなたの嗣業であって、あなたが大いなる力と御腕を持って導き出されたからです」(申命記9章26-29節)。
このモーセのとりなしの祈りを読む時、私はアブラハムの甥ロトが住んでいたソドムとゴモラの町の人々が犯す罪が非常に重いので、神が町を滅ぼそうとされた時、アブラハムがその町に50人、40人、30人、20人、いや10人の正しい人がいても滅ぼされるのですか?と粘り強く問い、憐れみを乞い、とりなすアブラハムを思い起こします。10すら正しい人がいないことを知らされ、アブラハムは諦めるのですが、ロトの妻は罪深い町から逃れながら、強い執着を断ち切れず、後ろを振り向いて塩の柱となってしまったという私たちへの警告を残しています。(創世記19章24-26節)
アブラハムの祈り、モーセのとりなしの祈り、それは大祭司イエス・キリストの原型です。アブラハムは数千人ほどの町民のために祈り、モーセは60万人のイスラエルの民のためにとりなし祈りました。イエス・キリストは全人類が滅びから救われるために十字架の死を通して人間の罪を贖い、復活して天の御国で永遠の大祭司としてとりなしの祈りを継続しておられるとヘブル人への手紙の筆者は語ります。原始教会のクリスチャン迫害者パウロは復活の主イエス様と出会って回心し、地中海沿岸都市で伝道し、教会を設立してゆくのですが、諸教会宛の手紙の中でとりなしの祈りの大切さを強調しています。使徒パウロは主イエス様が聖霊という霊の姿を取って、信じる者の内に宿り、私たちのために祈り続けていて下さると大胆に語ります。そして、手紙の中で「兄弟たちよ、私の心の願い、神に捧げる祈りは彼らが救われることである」(ローマ10:1)、「絶えず祈りと願いをし、どんな時にも御霊(聖霊)によって祈り、そのために目を覚まして倦むことなく、全てのクリスチャンのために祈り続けなさい。また私が口を開く時に、語るべき言葉を賜り、大胆に福音の奥義を明らかに示し得るように、私のために祈って欲しい」(エペソ6:18-19)と訴えています。
私は兵庫県の明石の開拓伝道で救われた人々、福岡の長住教会、KYレキシントンのイマヌエル・バプテスト教会、福津市の福間教会、二日市教会でバプテスマを受けた人々と信仰の友人、筑紫野南伝道所の信徒全員と求道者を毎朝の祈りに覚えてとりなしの祈りを捧げています。かつて教会で信仰告白をして教会から離れた人々が悔い改めて主の元に立ち返ることが出来るように祈り、また 東日本大震災の災者で愛する家族を失った人々、家・財産を失った人々、仕事を失った人々、仮設住宅で不便な生活を強いられている人々、放射能汚染により家を離れている人々に忍耐と希望が与えられるように祈ります。世界の2億の飢えている人々、麻薬・ギャンブル・アルコール・ゲーム依存症、うつ病患者、自殺願望者への憐れみと癒しを祈ります。
伝道困難な地方で伝道している牧師家族、宣教師家族に忍耐と希望が与えられるように祈ることもとも祈りの課題の一つです。世界の平和と秩序のために、世界経済が破たんしないように、EU諸国、米・日の財政破綻が生じないように、イスラエルとイランの間に戦争が起きないように、核戦争が生じないように、巨大地震が関東、東海、名古屋、九州を襲わないように神の憐れみを祈ります。毎日4百人近い人々を覚えて、祝福と恵み、忍耐、癒しが与えられるように祈りますと不思議に魂の充実と恵みが与えられるのです。また私と妻が祈りに覚えられる幸いを深く体験しています。