【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年4月24日説教要旨
聖書箇所 ルカ24:28-32
内に燃えた我らの心
瀬戸 毅義
その日、二人の弟子がエルサレムから11キロほど離れたエマオという村に向かって歩いていました。その日はイエスが復活された日でした。7マイル(口語訳)は原語で60スタディオンは11.1キロです。エマオの村はよくわかりません。関谷定夫先生は3つの場所をあげています(『聖書のあけぼのー考古学的アプローチー』)。ふたりの弟子11弟子の中に名はなくよくわかっていませんが、9節に「その他みんなの人」とあるからその中に含まれているのかもしれません。彼らはイエスの死で失望落胆のあまりじっとしておれなくなり旅に出たのでしょう。落ち込んだ二人はとぼとぼとエマオを目指し歩きました。二人はいつのまにか亡きイエスのことを話しているのでした。その時復活された主が共に歩かれますが二人にはわかりません。イエスの方から話しかけられました。ご自分の方から近づかれ励ましてくださるキリストです。主は旧約聖書を引きメシアが苦難を受けること、そのあと栄光に入るべきことを詳しく話されました。聞いているうちに二人の心は内に熱く燃えたのでした。これが有名なエマオの復活の記事です。ルカ福音書のみに記されているうるわしい記事です。
レンブラント(Rembrandt)の画で知られる素朴な田舎家の食卓の風景「エマオの食卓」(Supper at Emmaus)が有名です。新生讃美歌478の歌詞“Abide with me fast falls the eventideはこの聖書の記事を主題にしたものです。イエスの復活体は具体性と個性を持ち、それがイエスであることを感覚的に識別することができました。復活のイエスは二人の弟子だけに見えたのですが、馳走を持ってきた若者には見えず、イエスを普通の旅人と理解しています。
イエスの復活体は幽霊のように具体性のないものではなく体としての作用を持っていますが、肉体と同じ「血気の体」ではなく一種独特な「霊の体」であったと思われます。二人は一時的に復活体を経験したのでしょう。生身の肉体を持つ私たちには、十分理解できない聖書の記事であることは間違いありません。尊い聖書の記事です。理解できないからとといって無視したり否定することはできません。
文学に読む来世
平重衡は、平安時代末期の平家の武将で平清盛の五男でした。以下は北の方との最後の出会いです。
「壇ノ浦で投身すべきでしたが、いまI度あなたに会えるかと思い、つらい思いをしながら生きながらえてきました。それが、きょうが最後になろうとは……。」
「わたしの気持ちを察してくれ。逃れれることのできぬ身だ。またあの世で会おう。」吉村昭「平家物語」(現代語訳)
我等は四人である
内村鑑三
我等は四人であった
しかして今尚(な)お四人である、
戸籍帳簿に一人の名は消え、
四角の食台の一方は空しく、
四部合奏(しぶがっそう)の一部は欠けて、
讃美の調子は乱されしと雖(いえど)も、
しかも我等は今なお四人である。
我等は今(いま)尚(な)お四人である、
地の帳簿に一人の名は消えて、
天の記録に一人の名は植(ふ)えた、三度の食事に空席はできたが、
残る三人はより親しくなった、
彼女は今は我等の中(うち)にいる、
一人は三人を縛(しば)る愛の絆(きずな)となった。
しかし我等はいつまでも斯(か)くあるのではない、
我等は後に又前の如く四人に成るのである、
神の箛(らっぱ)の鳴り響く時、
寝(ねむ)れる者が皆起き上がる時、
主が再(ふたた)びこの地に臨(きた)り給う時、
新しきエルサレムが天より降(くだ)る時、
我等は再(ふたた)び四人になるのである。
(娘ルツ子の永眠を覚えて記したもの。1912(明治45)年2月『聖書之研究』)