【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年6月16日説教要旨
聖書箇所 創世記1章7節、テモテへの第2の手紙1章7節
力と愛と慎み
大野 惠正
先週の主の日は、聖霊降臨日でした。神の霊は下って、教会が誕生した日でした。それのみならず、新しい世界創造の日でした。
なぜなら、創世記2章が記している最初の創造の日、主なる神さまが、お造りになった人間に命の息を吹き入れて、人は生きた者、すなわち命の息となったのが第1の創造であったのに対し、聖霊を降臨させて、私たちに新しい霊をお注ぎ下さって、神さまは新しい世界を創造なさったからです。聖霊降臨日は、この世界にとって、神さまによる第2の世界の創造の日なのです。神さまはその日に何を下さったのでしょうか。
「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」と告げられています。テモテへの第2の手紙1章7節です。
神が私たちに下さるのは「臆病の霊ではない」といいます。わたしたちはこれから生活がどうなるのかと心配します。歳を取って、身体がなかなか若いようなときのようには行かない。病気が心配になる。一番注意しなければならないのは「臆病」」という病気です。病は気からと言います。聖書は力強く、神が下さるのは「臆病の霊ではない」というのです。
人間だれも臆病です。しかし、聖霊は臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊であって、それを私たちにくださるというのです。
力とは、自分の中の体力ではありません。デュナメオースという言葉が使われているのですが、これはいと高き方の力、神の力を指すのです。いと高き方の力が私たちに注がれているのです。私たちの身にいと高き方の力が注がれていることを感謝したいと思います。
第2に私たちに注がれているのは、愛です。アガペーといわれているものです。決して毀れることのない神の愛です。この世に生きて、人から粗末な扱いを受けることがあるでしょう。人はそのような限界を抱えています。しかし、私たちをお造りになって霊を注いでくださる方は、決して毀れることのない永遠の愛を注いでくださるのです。私たちはその愛に包まれていることを朝毎に夕ごとに覚えて神を愛し、人と共に歩みたいのです。
第3に私たちに注がれているのは、慎みの霊です。ほかの聖書では「思慮深い」と言った言葉で訳されています。傲慢になるのでも、浅はかに振る舞うのでもなく、思慮深く慎みをもって日常生活を過ごすことです。
この頃、社会から、思慮深さとか、慎みということが消えかかっていることを考えさせられます。国会議員が北方領土でお酒に任せて、言いたい放題の醜態を見せたり、包丁で子どもたちを殺してしまったりして、あまりにも自分本位の行動が目立ってきています。思慮深さとか慎みの深さというものをこそ、私たちはもつべきことを思うべきです。
そんな中で、私たちは小さい群れながら、慎み深く、神の愛を全身に受けて、しかも神の全能の力が与えられていることをいつも感謝して、この週も、新しい聖霊の息吹を受けて、歩ませて戴きましょう。
この社会の変革は、神が御霊を注いでくださるこの教会から始まるのです。神さまは聖霊を送って下さって、私たちを神さまの新しい世界の創造の一員として用いて下さるのです。腹一杯に、聖霊を戴き、力と愛と慎みをもって、この世界を耕し創らせて戴きましょう。そして私たちに与えられている使命感を新たに致しましょう。