【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年8月30日説教要旨
聖書箇所 第一コリント1:18~21(招きの詞ヨハネ15:11~17)
十字架の言葉は愚かですが
亀井 良雄
「十字架の言葉」という表現は、何気なく分かったように思いがちですが、皆様はお分かりでしょうか。日本では殆どの翻訳者がそのまま「十字架の言葉」と訳しています。十字架が話をするわけでは在りません。「イエスの言葉」と言えば、イエスが語った言葉だと思います。ここでこの表現はどんな意味なのでしょうか。コリントはアテネに近いギリシアの大都会です。西洋の古典であるギリシア哲学のギリシアです。ギリシア人は知、つまり言葉ロゴスを重んじました。ソクラテスは「無知の知」、自分は知らない事が在る事を知っていると言いました。イエス・キリストの福音をギリシア人に伝えようとしたパウロは、言葉ロゴスや知性を用いて関心を引いたのだと思います。
そこで今朝は、このコリントの箇所の意味を噛み砕いて、意訳を作りました。週報に挟んでいますのでご覧下さい。「十字架の言葉は愚かです」というのは、十字架の出来事によって救われるという信仰の言葉は、異邦人には愚かにしか受け取られない言葉だという事でしょう。パウロは、ギリシア人が言う知恵、即ち、この世の知恵と神の知恵とを較べて、十字架の出来事に注目させようとしているのです。
「神の力」とはどんな力でしょうか。万能の神の力ですから、それはもの凄いでしょうね。でもそれはパワーが物凄いという事ではないのです。そこで神の力に依って生きたと思われる人々を紹介したいと思います。一人は皆さまもよくご存知の中村哲先生です。いま、私が改めて紹介する必要が在りません。もう一人、日本人で私が思い浮かべる人は、足銅山公害事件で、激しい被害に遭った貧しい山奥の村人と、死ぬまで戦った田中正造氏もそうでしょう。もう一人、日本、それも長崎に住んでいたポーランド人のコルベ神父です。1931年から1936年まで長崎に居ました。帰国命令でポーランドに帰りますが、ナチスに捕まって、アウシュビッツで他の人の身代わりになって殺されました。今も長崎には神父の働きの記念が残されています。
その「神の力」とはどんな力でしょうか。ヨハネ11:25を紹介します。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命で在る。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」これが神の力だと思います。わたしたち凡人が神の力によって生きるとは、どんなに希望が無く、もう先がもう無いように思えても、神を呪いたくなっても、イエスの復活の命が私たちに注がれるという十字架の信仰に支えられて生きる事です。現代の歴史の片隅で、弱く小さくされて死の恐怖におびえている人々にも、このイエスの復活の命、つまり、神の力が注がれています。イエス・キリストの十字架 復活の命、感謝 アーメン