【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2026年3月29日説教要旨
聖書箇所 マルコによる福音書14章32~42節
受難への覚悟
原田 寛
「ひどく恐れてもだえはじめ・・・」
福音書は、イエスの感情を表現する言葉をあまり伝えていない。それゆえに、この「ひどく恐れて…」という言葉は、ゲッセマネの光景を際立たせる。福音書は、十字架に向かう神の御子イエスの心情を顕わにしている。
ゲッセマネでイエスは、だれも替わることができない、自分自身が負うべき十字架を前に、孤独な時を過ごしていた。「アッバ父よ、あなたは、何でもおできになります・・・」
イエスは、多くの人々の危機や課題に向き合い克服してきた。病を癒し、奇跡を行い、多くの人の心をとらえて、導いてきた。また、律法学者やファリサイ派の人々の発する言葉や問いに対しても落ち着き対処されてきた。そのようなイエスであったが、主イエスの祈りは、異様だった。イエスにして自分自身にできないことがあったのだ。父なる神に「あなたは何でもできる」と祈って、「この杯をわたしから取り除けてください」と、自分の願いをのべなければならなかった。それは、「死」の壁だ。そして、このイエスの祈りに対する父なる神の応答は、ない。しかし、イエスは、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われるように」と祈る。負うべきことは何かを、解っている。しかし、それはただ事ではない話なのだ。イエスは、同じことを三度も繰り返した。くどくどと祈ってはならないと教えた方なのに。
この様子は、イエスに伴った弟子たちの記憶に強く残る事柄だった。弟子たちは、負わされた大きなストレスに苦しむ主イエスのために、祈ることも心を合わせることもできなかった。おそらくイエスと共に、多くの人に対応することに負われ、疲れていた。それでも、最後の晩餐の際に述べられたイエスの言葉を受け止めつつ、逮捕の際には、イエスと一緒に死ななければならなくなっても、協力し合って抵抗し、主の逮捕を阻止する用意をした。しかし、思いとは、裏腹に逃避するしかなかった。
主イエス・キリストの祈りの本質は、「神の愛」である。その愛は、受難を前に苦しむご自身を守ろうとしても守れない弟子たちに、そして、武器を取って、社会の目に触れないようにひそかに逮捕しようとする敵対者たちに、そして、今、起こっていることを知る由もないすべての人々に対して示されるべき最上級の重大な事柄だ。イエスは、繰り返し祈る中で、負うべきことと表されていくことになるこの意味を強くいだいていった。くどい祈りではなく、与えられた使命を強めていく祈りだったのだ。
「時は来た。・・・立て、さあ行こう・・・」
主はご自身の受難に対して覚悟して、その「時」を迎えたのだ。
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