【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2024年3月17日説教要旨
聖書箇所 マルコによる福音書 4章35~41節
向こう岸に渡ろう
洪 淳奎
弟子たちがガリラヤ海を渡る途中、嵐にあう切迫した事件が記されています。彼らは最初は大したことないと思ったかもしれません。なぜなら、弟子たちの中で多くの人が漁師出身だったからです。しかし、あの日の突風は全く違って、自分たちの力ではどうしようもない大きな嵐でありました。
このような姿はまるで私たちの人生のようなものではないでしょうか。人生という海に突風が吹いてくる時があります。さまざまな苦しみや試練にあうことがあります。
では、弟たちがこのように嵐の中で苦しんでる時、イエス様は今何をされていますか。イエス様は船の後ろで、枕をして眠っておられています。聖書はこの2つの姿を対照して見せています。
それで弟子たちはイエス様に、“先生、私たちがおぼれても構わないのですか?”と叫んでいます。彼らは今、自分たちが死にそうだと話しています。主を従う歩みの中で、私たちも時々このように話しているのではないでしょうか。
でもその時、イエス様は起き上がって、風を叱り、海に向かって「黙れ、静まれ」と言われた。すると、風はやみ、海は静まりました。私たちの置かれた状況に、イエス様は目をつぶっておられるように見えますが、決してそういうことではありません。
船の中には今、誰が共に乗っていますか。すべての物を治める主が乗っています。その船に主が一緒に乗っているのに、どうして船が沈没することができるでしょうか。
弟子たちの問題は、ただ嵐が怖かったということではありません。そんな嵐の前で、怖がらない人はいません。イエス様は彼らの恐れ自体を指摘したわけではなく、彼らが恐れることになったその原因を明らかにしています。
私たちの考えや信念などは、小さな風の前でも飛んでいってしまうものです。イエス様の弟子たちも例外ではありませんでした。“死んでも従う”と誓ったんですが、いざとなれば、恐れで逃げてしまいます。信仰は、自分で勇気を出して、嵐に立ち向うことではありません。共におられる万物の主を見つめることです。
本文の最初の部分に、もう一度注目していただきたいのです。「向こう岸に渡ろう」と言われたのは、ほかならないイエス様でした。では、その出発を計画された方がイエス様なら、海を渡ることはできるのは当然のことではないでしょうか。そして、もしかしたら、この嵐は主の深い計画の中に、そもそもあったかもしれません。
重要なことは、主が私たちと一緒におられ、主の時間と方法で、主の御心のままに導いてくださるということを信じることです。
昔から教会は船によくたとえられています。その船にはイエス様が共に乗っておられます。そして、私たち一人一人の名前を呼んでおられます。イエス様が今日も私たちに言われています。「起きなさい。恐れないで、私を信じなさい。そして一緒に渡ろう」。この主の御言葉を心に留めて、共に向岸へ渡ろうではありませんか。