【説教音声ファイル】
2018年5月13日説教要旨
聖書箇所: イザヤ書52章12-13節・ヨハネ福音書10章11-16節
「安心して生きていい」
大野惠正
橋田壽賀子さんという方をご存じだと思います。最近この方が「安楽死で死なせてください」という本を書いて、話題になっています。熱海の立派なマンションに住んで、きれいな海を眺め、何一つ不自由のない生活をしているのですが、歳をとって、死ぬということを考えることがあるようです。そして、人に迷惑をかける前に、死に方とその時期を自分で選びたいとお書きになっておられるのです。橋田さんは、社会的にも、経済的にも何不自由ない生活を確保していました。しかし社会的な立場を得、お金を充分持っていても、それで満ち足りるかというと、そうではないということを、この事は示しています。
社会的・経済的立場に恵まれていなくても、橋田さんのように考えない人は沢山います。それでも自分の願っている通りに事が運ばないことは、しばしば辛いことです。特に頭や心で考えることが果たせない。これは辛いことです。
今日、最初に読んでいただいた旧約聖書の言葉を最初に聴いたひとびとは絶望的な状況におりました。彼らは囚われの身であり、伝統的な宗教の足場をなくし、農業をするにも土地はなく、故郷から2000キロ離れた異郷で暮らしていました。故郷エルサレムを失ってから40年を経ていました。彼らは生きる芯を失っていました。
ところが突然バビロニアは崩壊し、新しく王座に就いたペルシャ王は彼らにエルサレムに戻ってよいと命じたのです。しかし故郷は荒れ果て、そこに戻ろうにも2000キロ離れており、間には砂漠と山地、そしてアッシリア人、シリア人がました。その上、エルサレムには外国人、隣邦にはサマリア人がいたのです。バビロニアのユダヤ人は帰るに帰れないありさまだったのです。
その彼らに語られたのが今日の聖句です。「急いで出る必要はない、とんでいく必要もない」。これは「慌てるな。焦るな。落ち着いていて良い」ということです。どうしてなのでしょうか。「主があなた方の前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからです」。これは「お前がどこにいても私がお前と一緒にいる」という意味です。これを聴き、彼らは出発したのです。困難と闘いながら故郷で生きる道を目指してです。 その後の13節は奇妙な言葉です.「見よ、わが僕は栄える。彼は高められ、あげられ、非常に高くなる」というのです。しかし、これこそが12節の言葉を新約聖書のヨハネ福音書10章11節以下と結びつける言葉なのです。「わが僕は栄える。彼は高められ、あげられ、非常に高くなる」と言われているこの「僕」こそ、イエス・キリストを示す言葉であるとキリスト教の初代の信徒たち、私たちの信仰の先祖たちは受け取ってきたのです。何故ならイエス・キリストは、ご自身「私は善き羊飼いである」と名乗られたからです(ヨハネによる福音書10章11節―16節)。
私たちにはこの「善き羊飼い」であるイエス・キリストがいて下さいます。この方は、私がどこにおり、どんな状態の所に身をおいていても、私のことを心配し、心にかけて下さる。「なにも心配するな、私がお前の誕生、人生、悩み、病気、そして死ぬときもお前と一緒におり、お前を間違いなく、わたしたちの故郷、永遠の故郷、神の御国に導いていくぞ」と言ってくださるのです。だから安心して生きて良いのです。感謝しながらです。