【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年8月14日説教要旨
聖書箇所 イザヤ書52章1節~10節
平和を告げる者
梅木 光男
今年も終戦記念日を迎えようとしています。戦後77年経過して人々の記憶から悲惨な体験が風化しつつあります。ロシアのウクライナ侵攻によって本格的な戦争に突入する危険性がある中で、今一度「平和」について考えてみたいと思います。
過去の歴史を振り返ってみると武力による平和は一時的なものであり最終的な解決にならないことは自明な理であるにも関わらず、人間は恐怖心や不安等によって核を含む武器保有することの自己満足によって戦争がなくならない現実に、我々の「罪」を認識しなければならないと思います。
本日の聖書は有名なイザヤ書52章から神が与えられる「平和」について考えてみました。
イスラエルの民はエジプトでの苦しい生活から神の恵みによって約束の地カナンへと導かれたが、ダビデやソロモンによるエレサレムの繫栄と栄光を得たものの不信仰や傲慢、偶像崇拝、この世的な富などを追い求めた結果バビロン捕囚という屈辱的な経験をしました。ここでようやく魂が打ち砕かれ真の支配者である神に立ち返ることを決意したのです。
やがてバビロン捕囚からの解放という福音を告げる使者の足の美しさをたたえ主に仕える喜びを知るようになります。神はイスラエルの民を彼らの罪の故に懲らしめに会わせられますが、苦難の中でも神は決して見捨てることはなされず、神の主権は絶対であり必ず約束は成就されるという希望が現実となったのです。このシオンの慰めのメッセージは旧約において十字架の福音であり「聞け」という声にイザヤ書における終末思想が伺えます。
主がイスラエルの民を慰め、贖いそしてその聖なる御腕を現しその救いを全地に知れ渡して、その中で整然とした隊列を組んで進んでいく新しいイスラエルの民の姿が伺えられます。
平和とは「他人」と闘うというよりもまず「自分」とかく世間的な平和の安逸を貪ろうとして自分の利益を優先させたいと願って、守るべき秩序を乱しがちな「自分」と闘って得られる。それはその人にとって「十字架」となるという渡辺和子さんの言葉が心に響きます。