k.k君、この中学の同級生の名前と当時の顔や姿をけっして忘れることができません。彼は殺人の罪で死刑になりました。彼のことを思い出す度に自責の念にかられます。彼の名前が凶悪殺人犯として新聞に載ったのを見て驚いてから、もう40数年も経ちます。彼はとても不幸な人生を歩きました。彼の家庭は、父がアルコール中毒で収入が乏しく、兄弟も6,7人いて際立って貧しい生活をしていました。同級生のk君は一番上の長男でした。彼と兄弟たちは、皆みすぼらしい格好をしていましたので、周りの者たちは誰も相手にせず小馬鹿にしていた風がありました。私もその一人だったかもしれません。いや、きっとそうだったでしょう! 彼の生い立ちを思う時、私が彼の立場だったら、恐らく自暴自棄になって彼以上の罪を犯したかもしれません。ただ貧しきゆえに、周りの皆から、いわれなき蔑視しされ続けた人生の辛さは、他人には理解し難い、耐え難いものだったことでしょう。彼はこの世では、殺人の罪で死刑執行されました。しかし、誰もが使命を持ってこの世に生まれてきていること思う時、彼もまた重要な教訓を残して死んで行ったように思えるのです。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままです。しかし、もし死ねば多くの実を結ぶようになります」(ヨハネ12:24)と主はお教えになりました。私たちが死んで一粒の麦になった時に、多くの実を結ぶでしょうか。彼が辛い人生を歩いて、残していったメッセージは何だったのでしょうか。人生には隣人の愛が必要であり、愛なしには生きていけないということを、人を殺めるような重大な罪を犯す形で、私たちに分かるように示してこの世を終えたと、私は受け止めたいと願うのです。
イエス様は「あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身におこるから」(ヨハネ5:14)と言われました。病がいやされる前よりもいやされた後の人生のほうが、幸いなものにならなければなりません。
イエス様からの奇蹟を直接経験してもなお、罪を犯して生きる可能性があることを覚えます。恵みを受けることも重要ですが、その恵みを保ち、豊かにすることのほうがもっと重要です。私たちは罪贖われ、心平安に生かされている恵みを頂いて、そこに留まってはいないでしょうか。自分の利益の関心だけに留まってはいないでしょうか。
マタイ16:24~27でイエス様は言われています。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者は、それを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを得る。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったなら、何の益があるだろうか。また、人は自分の命を買い戻すために何を支払えばよいのか。人の子は父の栄光に包まれて、み使いたちとともに来る。その時、その行いに応じて、一人ひとりに報いる」。
「魂の贖いの値は高く、いつまでも払いきることができない」(詩篇49:9)ほどの大きく、また多い恵みを受けている私たちです。主の尊い恵みをむだにしないよう、いつも罪と戦い、恐れおののきながら救いを成し遂げてまいりましょう。
2015.1.18 説教要旨 牧師 岩橋隆二