【聖書箇所朗読】
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2022年12月25日説教要約
聖書箇所 ルカによる福音書2章8節~14節
悲しみの隣には、喜びがある
宗広 一美
ルカによる福音書2章9節“すると主の御使いが現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。”とあります。ユダヤの民にとって、主の栄光を目の当たりにするということは、死を意味しました。こう言われています。“・・「我々の神、主がその栄光と、その大いなることとを我々に示されて、・・・しかもなおその人が生きているのを見ました。我々はなぜ死ななければならないのでしょうか。・・・もしこの上なお我々の神、主の声を聞くならば、我々は死んでしまうでしょう。およそ肉なる者のうち、誰が、火の中から語られる生ける神の声を・・聞いてなお生きている者がありましょうか。”と。(申命記5:24~26)つまりは、神様のあまりにも清い光りによって、肉である自分は、殺されると言っています。この恐れが、羊飼いたちをめぐり照らしたのですから、もう立っても座っていられなくなってしまったのです。
この聖書の語ります感覚と言いますか、とらえ方は、一貫しています。すなわち人には罪があるということです。そしてこれを闇の中にいると表現しています。それに対して神様はまったき光の中にいる存在と考えられています。そのまったき光が闇の中に差し込んで来たのですが、闇の中に生きている者にとってこの光は、恐ろしいものなのです。つまりは、自分の正体を明るみ出されてしまうからです。こう言われています。“・・光が世に来たのに、人々はその行いが悪いために、光よりも闇を愛した・・”(ヨハネ3:19)と。
しかし、ここにはジレンマがあります。現実の苦しみからの解放を願う思いと自分自身の欲望、つまりは、エゴを満たしたいと思う思いのジレンマです。つまりは、自分が自分がを満たそうとすれば、必ず他の人々とぶつかり、苦しみが起ります。それは、この世の人間にある罪なのです。そして、人は、それを自分では止められないのです。これが闇の中に生きる実体でしょう。これに対して光りが来た、それもまったき光が来たとは、一体どういうことなのでしょうか。つまりは、罪を赦す愛による救いがあることを<みことば>は伝えているのです。それは、人の悲しみ苦しみの隣には大いなる喜びがあることを意味しています。