【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2023年10月7日説教要旨
聖書箇所 テモテ人への手紙第二4章1~5節
折が良くても悪くても
踊 一郎
先日鹿児島に行きました。フランシスコ・ザビエルの足跡を辿るためです。
ザビエルがマラッカから日本へ向かったのは1549年6月24日、鹿児島錦江湾の祇園之洲に上陸したのが8月15日でした。43才のザビエルは噴煙を上げる桜島を眺めながら、これから始まる日本の福音宣教に神の導きを祈ったことでしょう。
ザビエルは現在の日置市伊集院町に向かいます。当時の薩摩藩主島津隆久は伊集院の一宇治城におり、ザビエルは布教の許可を得ようとしたのです。標高144メートルの鉄丸山に立つと、一宇治城がかなり大きな山城であったことが分かります。現在そこにはザビエルと島津貴久の会見を記念した古い碑と、最近建てられたザビエル像がありました。
また伊集院にはザビエルの道案内役ヤジロウの墓と言われるものもあります。案内板は木々の間に隠れて見逃しそうですが、来訪者もある様子で、小さなマリア像が置かれていました。
1550年10月、ザビエルは伊集院から平戸に赴き領主松浦隆信と会見、山口では大内義隆に会った後海路堺へ、さらに京都へ向かいます。
けれども京都では後奈良天皇に謁見を望むも果たせませんでした。「天皇に謁見するのは複雑な手続きが必要で、宣教許可を得るという期待も薄れ、また、宣教許可を得たとしても、たび重なる戦乱で焦土と化した都で果たして福音の種子を蒔くことができるのかどうかも疑わしくなってきた」(尾原悟『ザビエル』)。仕方なくわずか11日の滞在で再び平戸に戻ったのです。
1551年4月、ザビエルは再度山口へ行き、大内義隆から廃寺大道寺を授かり、そこで福音宣教を開始します。
1551年9月には大友宗麟の招きで大分に赴きました。11月15日ザビエルは沖の浜港から中国広東沖の上川島へ向かいます。翌年2月15日ゴアに到着、再度中国行きを準備、5月末マラッカに到着、7月上川島に向けて出帆、9月上旬到着、けれども11月下旬ザビエルは病に臥し、12月3日召されたのでした。享年46才。
ザビエルの日本滞在はわずか2年数ケ月でした。彼の働きは失敗だったのでしょうか。いいえ、ザビエルの心は常にキリストの愛に燃やされていました。キリストの愛を伝えたいとの思いが彼を突き動かし、日本の地に最初の福音の種が蒔かれたのでした。ザビエルの足跡を辿る今回の旅は、私の心にも改めて福音宣教への思いを燃やしました。
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」Ⅱテモテ4:2