【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2025年6月15日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書7章11節
教会で育まれていく
鈴木 牧人
ある牧師先生の言葉からこんな話を聞きました。その先生は、戦争中にお父さまを亡くされ、お母さまが女手一つで自分たちを育ててくれたそうです。お母さまは「子どもたちをどう育てていったらいいのだろうか」と悩む中、「教会で育てなさい。そうすればきっと大丈夫」と言われたそうです。お母さまは、その言葉を信じ、子どもたちと教会に集いながら、一緒に育っていくことを選び取りました。先生は、「そのおかげで自分は今日まで歩んでくることができたんだよ」とおっしゃっていました。そして、自身の経験を通して、「教会で育まれる」ことの大切さを語っていました。
聖書には、次のような御言葉があります。
「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」マタイによる福音書7:11
この御言葉を読みながら、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」という言葉が心に留まります。「あなたがたは悪い者でありながらも」という言葉にはドキッとしてしまいます。しかし、自分を顧みる時、いつも正しいとは言えない自分がいることを認めないではいられません。そんな自分は、親として、子どもに対し「これは良い物だから」と思って与えようとしていたとしても、はたして、それが「本当にその子のためになっているだろうか。親の勝手な押し付けになっていたりしないだろうか」と思うことがあります。色々なことを考えながら、子どもにどう関わっていけばいいのか、何を与え、何を語るべきか、本当に分からなくなってしまうこともあります。そんなふうに迷いながら、悩みながら、日々を歩む私たちがいるのではないでしょうか。そんな私たちにこの御言葉が迫ってきます。私たちは皆、自分の子どもに良い物を与えることを知っていますし、与えたいと願っています。
しかしながら、私たちは悪い部分、的外れな部分を抱えているので、本当に良い物が何かも分かっていないことがあったりするのです。それでも、それなりに私たちが考える良い物を与えようとしているのが、私たちなのではないでしょうか。
そんな私たちのことを考える時、改めて「教会で育てていくならきっと大丈夫」という言葉に励まされるのです。もちろん、教会も間違ったことをしてしまうことがあるかも知れませんし、教会で育まれていても、色々なことがあったり、見せられたりするかも知れません。しかし、それでも「教会で育まれていくこと」は幸いなのだと思います。
教会には、根底に祈りがあり、御言葉があります。そして、何より神さまの愛と真実があります。教会に集う私たち自身は時々に的外れなことをしてしまうかも知れませんが、そんな私たちを神さまはその都度、導き、軌道修正してくださるのです。そんなふうに、私たちは紆余曲折をしながらも、神さまに取り扱われ、共に育まれていくのです。教会とはそのような場所です。そのことに信頼しながら、私たちは「教会で育てていくならきっと大丈夫」と語りあっていきたいと思います。