皆さんは、どんな指導者がいいと思いますか? 決断力に優れ何でも即断即決、ぐいぐいと強力に物事を進めていく指導者を求めていますか? 場合によっては、そういうリーダーも必要ですが、周りの一人ひとりのことを考えて、ある時は一緒に傷つきながら、共に進んでくれる指導者がいたらなんと慰められるでしょうか。
三浦綾子さんの夫の三浦光世さんが10月30日に亡くなられたことを新聞記事で知りました。病気がちの綾子さんを支え続け、三浦作品の口述筆記をしてこられた人ですが、とりわけ、毎日2時間程の時間をかけて数百人の方の執り成しの祈りを捧げておられたことは殊に有名です。三浦光世さんほどのイエス・キリストの似姿であった人は少なかったのではないでしょうか。
今日の聖書の箇所イザヤ書42章3節です。「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。」
17世紀の思想家で数学者のパスカルの言葉は有名です。「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」と言っています。葦は、直径1㎝位の竹状のもので、とても繊細、弱いものです。預言者は、神様が新しく選ばれる指導者の姿を幻で見ます。その姿は、上に立つ人としてはあまりにも力がないようにも思えました。大声で叫ぶわけでもなく、人々を力強く導いたり魅力的に自分を主張しようともしない。しかし、神さまが望む正しい人がそこにはいたのです。神さまは、バビロン捕囚の中にいる一人の預言者に向かって、神さまご自身がお立てになる「僕」としてのリーダーの姿をお示しになります。その姿は、今までのどんな王とも、さらにはどんな預言者とも異なっていました。街頭で叫ばず、呼ばわらず、むしろ自分自身もまた「傷ついた葦」「暗くなっていく灯心」のようでありつつ、そのような者たちが失われないように、戦乱や荒廃のために傷つき弱っている人々を守り、慰め、力づけるリーダーの姿でした。それは同時に、預言者自身の姿勢への呼びかけであり、召命でした。
神さまは、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を」(42:1)と言われます。それは、この時代を導く新しいリーダー・指導者像の姿です。これから神さまが示す人は「僕」と呼ばれます。それは「仕える人、下に立つ人」、「奴隷」をすら意味する言葉です。傷ついた者を折れることなく、暗くなってゆく者を消すことなく、人を救うために、イエスさまは「僕」になられたのです。
私たちは、この神さまに召され生かされています。私たちは、主イエス・キリストがいつも側に寄り添ってくださっていますので、どんな苦難・困難があろうと、そのことを喜びとして生きていくことが出来ます。神さまに用いられることの自由の広さ、豊かさを覚えて、救い主イエス・キリストの愛を、その福音を宣べ伝えてまいりたいと願います。
2014.11.2 説教要旨 牧師 岩橋 隆二