【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2024年6月16日説教要旨
聖書箇所 ヨハネによる福音書9章1~41節
日のあるうちに
原田 寛
ヨハネ伝が記されたころ、ユダヤ人たちは、クリスチャンをユダヤ人の会堂から追放すること決めていました。ローマ帝国による迫害が開始される前兆となります。正に、キリスト教会が地下に降り始めるときとなるのです。イエスが盲人の目を開く前に語られたことを思い起こすことになったのでしょう。
シロアムというのは、「遣わされた者」という意味だと記されています。それは、イエス・キリストだと告白しているようですね。盲人の目が開かれた、神の恵みが表されたという証です。表されたのが安息日であったがゆえに、せっかくの恵みを人々は喜ぶどころか受け入れることができませんでした。また、真実を聞き出し知り、人々に説明できる立場の両親も、突き放してしまいました。
39節に「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになるためである」とイエスは言われました。ファリサイ派の人たちは、「我々は見えないということか」と言われた言葉に反応しますが、イエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われました。
イザヤ書59章9節では、罪ゆえに「光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」と預言されています。
閉ざされた目が開かれる、それは、神の恵みです。見るべきものが見えることは喜びです。イザヤ59章21節には「これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においたわたしの言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からもあなたの子孫の子孫の口からも今も、そしてとこしえに離れることはない、」そのように言われます。
闇の中に突入していくキリスト教会は、主イエスを信じた。クリスチャンを受け入れることのできない人たちと組することをせず、見えなかった者に恵みを表してくださる神の御子イエス・キリストを信じたのです。
日のあるうちに、つまり、わたしたちが見せてもらっているうちにということではないでしょうか。見えなくなること、忘れてしまうこと、つまずくこと、私たちにあることです。主の恵みは、そんな私たちを捉えるのです。信じる者になりましょう。