【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2022年7月24日説教要旨
聖書箇所 ヨハネによる福音書11章28~37節
死を超える信仰
宗広 一美
ここで語られていることは、人にとっては、死というものは、圧倒的なもので、どうしようもない故の悲嘆です。
しかし、これに対してイエス様の激しい感情は、何と言うべきか、実はよく分かりません。口語訳で「激しく感動し」と訳されている言葉は、言葉の調子などによって怒り、や感動を表すものと考えられています。
しかし、その中には、憐れみ、同情という感情は含まれていないと考えられています。むしろ死に対する怒り、人を悲嘆にくれさせる死に対する憤りとも考えられます。
もちろんイエス様の憐れみがないわけではありません。「涙を流された」と言われる通りです。そこで問題とされることは、「あの盲人の目を開けたこの人でも、ラザロを死なないようには、出来なかったのか」という人の死への無力感です。
これに対して、この後の<みことば>の展開は劇的です。ラザロの復活という奇跡を目の当たりにさせられるからです。
しかし、ここで注意する必要があります。それは、奇跡に目を取られて<みことば>が置いていかれがちになることです。問題は奇跡ではありません。イエス様が来られたこと、その<みことば>が与えられたことが、大事なのです。
助け主メシアが来られた時、その臨在がある時には、何が起こっているかを人は、誰も知りません。言われていることは、こうです。“神を見た者は、まだ一人もいない。もしわたしたちが、互いに愛し合うなら、神はわたしたちの内にいまし、神の愛がわたしたちの内に全うされるのである。”(Ⅰヨハネ4:12)と。そうであるなら、マルタやマリヤの兄弟ラザロへの愛情や近隣の人々の共感、慰めがあるところに神様の愛があるということです。
それは、またすべての人のために与えられている神様の愛が、まさに一人一人のところにあって愛と慰めを与えておられるとうことでもあります。
こう言われています。“私たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のために、贖いの供え物として、御子をお遣わしになった。ここに愛がある。”(Ⅰヨハネ4:10)と。
そしてこれは、イエス様の十字架復活の愛以外の何ものでもありません。私たちの信仰はこの愛と結び付けられることが大切です。これが死を超える愛の信仰です。