2017年11月5日説教要旨
ヨハネによる福音書7章37節~38節
「活ける水」
梅木 光男
今回はヨハネ福音書7章37~38節から、主イエスが仮庵祭にエレサレムにて群衆に「私は生ける水である」と宣言された箇所を取り上げました。この祭りはユダヤの人々にとってとても大切なものでした。この祭りに訪れた大勢の参拝者を目の前にして、主イエスは高らかに「キリスト」としての権威、救いの業について叫ばれたと聖書は記しています。
ヨハネ福音書は「光と水の書」とも言われています。特にパレスチナ地方では水は貴重なものでした。しばしば聖書の中でも「井戸」をめぐる争いが記されています。水の性質ついて考えると①水は液体、気体、固体と形を変える融通無碍であり、入れる器に応じて変化します②高いところから低い所に流れることから「謙虚さ」を表します。③洪水のように秘めたる力があり、岩をも砕くパワーを有しています。④我々の命を保つための必需品であることは言うまでもありません。⑤これが重要なのですが、「罪」を清めるために用いられます。他の聖書の箇所でも、ノアの箱舟(洪水による裁き)、ナウマンの重い皮膚病の癒し、サマリアの女など聖霊と深く結びついて主の救いがしめされます。特にニコデモと主イエスとの会話で「だれでも水と聖霊とによって生まれなければ神の国に入ることができない」と記されています。主イエスは常に我々に大きくかつ優しく語りかけられます。イエス・キリストを救い主と信じる信仰と悔い改めがあれば、喉の渇きを一時的に解消するだけではなく、「魂の渇きを癒す」生ける水(聖霊)が与えられる、そして、それはその人のうちで命の泉となり、イエスを信じる人は愛と知恵と希望に満ち溢れた人生を送ることができると宣言されたのです。この世の富は「独占」するところに生じますが、この世の富では「心」を富ますことはできず、「心の豊かさ」は他の人とお互いのものを分かち合うことで生じるのではないでしょうか。私たちの渇いた心に命の水を与え、新たな創造を生み出す主イエス。主イエスの贖いは希望、平安、愛、真理そして永遠の命へと私たちを招いて下さいます。「渇いている者は誰でも受け入れてくださる」という祝福に主イエスご自身が招いておられます。平等で差別なくかつ自由に、罪ある者すべてが主のみもとに招かれている恵みに感謝しましょう!