【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年8月4日説教要旨
聖書箇所 ローマ人への手紙4章14~25節
爲(せ)ん方つくれども神を信じたアブラハム
瀬戸 毅義
もし皆さんが75歳になった時に、神様から「あなたは今住んでいるところを出て、家族親族とも別れ、父とも別れ、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:1)といわれたらどうなさいますか。神の言葉にしたがいますか?神様の呼びかけは「あなたは」と単数です。アブラハムは決断を迫られました。
アブラハム(このころの名前はアブラム)は神の言葉に従いました。彼には子供がいません。食物や牧草地を求めて住居を移動しながら生活する遊牧民(nomad)でした。かれは生活の便利な当時の文明圏であったところを離れました。ユウフラテス川をわたりまだ見ぬ遥かなカナンの地(現在のパレスチナ)めざして長い旅にでました。遊牧民の生活は楽なものではありません。羊の群れを一つの場所から次の場所へと移動させねばなりません。羊をねらう野獣とたたかわねばなりません。さらには敵意を持つ周囲の人々と、争いが起きたときは、解決しなければなりません。彼の一行は妻のサライ、弟の子ロトとハランの地で寝起きを共にするようになった人々も含めると大きな集団でした。その集団の先頭に立ったアブラハムにはそれを成し遂げるだけの能力がありました。人々を統率するための人望がありました。何よりも困難なことをやり抜くだけの信仰がありました。
アブラハムには跡取りがいませんでした。彼は神様からある時こういわれました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。 これは自分の年齢を考えても雲をつかむような話であり、信じることが難しい話です。しかし聖書には「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」(創世記15:5,6)とあります。
ローマ書4章で、パウロは問います。アブラハムが義とされたのは行い(律法)によったのか。律法を守ることは行いですね。ユダヤ人にとって、律法に定められている割礼は民族の誇りです。命を懸けてでも守り抜くべきものでした。ナチスによる迫害の時代にも、何処に行こうとも、何処に住まおうとも律法(おきて)を守りぬくー安息日の厳守、割礼を受けること等は彼らの誇りでした。民族の誇りであるともいえましょう。
ユダヤ人はアブラハムが義とされたのは、律法(おきて)を守ったからであるといいましたが、パウロはユダヤ人の頼みとする聖書に依りこれを論破しました。アブラハムはこの時無割礼でしたが、神を信じて義とされたのです。「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」(創世記 15:6)
彼が割礼を受けたのは、これより後のことでした。「男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。」(創世記17:10)
アブラハムの信仰をもういちど振り返りましょう。
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じました(ローマ4:18)。原文では「望みに反対して、望みの中に信じました」。英訳例では以下のようです。In hope against hope he believed…(NASB)Though there seemed no hope, he hoped and believed…(NJB)このアブラハムの信仰こそ、私たちがお手本とすべきものです。今日の説教の題は「せんかた尽くれども信じたアブラハム」となっています。文語訳聖書には、「われら四方より患難を受くれども窮せず、爲(せ)ん方つくれども希望を失はず」(コリント後書4:8)とあります。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」(新共同訳コリント第2章8節)。「せんかたつきても」は、八方塞がりの状態ですね。
私たちが神の前に義と認められるのは律法(おきて)を守ることによるのでしょうか。厳しい〇〇の行(ぎょう)をすることによるのでしょうか。それとも信仰によるのでしょうか。これは昔も今もかわらない大問題であると思います。私はよくNHKBSの異国の旅番組などを見ます。体力もお金もありませんのでもっぱらテレビです。ある番組で五体投地(ごたいとうち)の場面がありました。一人の男性がトラックも行き交う道路で、五体投地をしながら進むのをみて本当にこころをうたれました。それほどまでに信じる宗教に身を捧げるその姿勢に心を打たれました。その様子はGoogle五体投地(ごたいとうち)画像で見ることができます。
日本には千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)があります。この行(ぎょう)は「悟りを得るためではなく、悟りに近づくためにやらせてもらっていることを知るため」とのこと(千日回峰行 /比叡山 – Wikipedia)。この行について説明を読むとただ圧倒されます。体力のない人、弱い人、お金のない人にはとうてい出来そうもありません。
聖書に「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」(ローマ5:6,8)とあります。神は弱い私たちのために救いの道をすでに用意してくださいました。
ジョン・バニヤンJohn Bunyan(1628-88)は、英国の牧師・伝道師・作家でした。彼の一番有名な作品は「天路歴程」(The Pilgrim’s Progress /1678)です。重荷を背負ったクリスチャンが完全な救いを求めて天の都である新エルサレム(Celestial City)を目指して行く寓意物語。夢物語の形式になっています。内容はすべて作者の体験と観察とから得たものといわれます。その旅の途中、クリスチャンは、律法と福音について解き明かしを受けました。
キリスト者は、非常に大きな広間につれていかれました。そこは一度も掃除をしたことがなくほこりが一杯でした。解説者(み言葉の解き明かしをする人)は男を呼んで掃除を命じました。さて男が掃き始めると、ほこりがあたり一面に飛んだので、キリスト者は息がつまりそうになりました。そこで解説者は側に立っていた乙女に水を持って来て、部屋にまきなさいといいました。乙女がそのとおりとすると、部屋は気持よく掃き清められました。そこでキリスト者は言いました。これはどういう意味でしょうか。
解説者は答えた。この広間は福音のさわやかな恵みによって一度も清められたことのない人の心です。ほこりはその原罪であり、内部の腐敗であって、それが彼の全人格を汚してしまったのです。最初に掃除しかけた男は「律法」ですが、水を持って来てまいた乙女は「福音」です。さて、君が見たとおり、初めの男が掃除を始めるとすぐほこりがあたり一面に立ったので彼は部屋を清めることができず、君はそのために息がつまりそうになりました。これは君に次のことを示すためです。すなわち「律法」は(その働きによって)心を罪から清めないで、罪をあらわにして禁じるとき、かえってそれを魂の中によみがえらせ、力づけ、増大させる。つまり、律法は罪をおさえつける力を与えるものではない、ということです。(バニアン『天路歴程』正編 池谷敏雄訳、新教出版社、1976年)