【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2021年3月7日説教要旨
マタイによる福音書26章36節~44節
祈り
京都洛西教会
山田 光道
昨年9月には私達が毎週ささげている礼拝について学びをいたしました。この礼拝を根底で支えているものが祈りであると言っても過言ではないでしょう。礼拝の中でささげられる公祷,公の祈りでありますが,司会者によってこの礼拝を神にささげる意味で,参加者一同で主の祈りが声を合わせてささげられます。献金奉仕者によって献金の意味内容願い感謝が、そして説教者によってみ言葉の取次ぎの終わりを示す祈りと礼拝を締めくくる終祷・祝祷がささげられます。この公の祈りにつらなるものが私達が日常の中で行う日々の祈りであります。
私達教会に集う者たちにとって、祈りは具体的に教えられたり、先輩クリスチャンの祈りを手本として学び,ごく自然の行為であります。そして「お祈りしています」、「お祈りください」と挨拶の言葉になるかのように私達自身になじんでいます。しかし祈りとは何だろう,どういうことかを改めて考えるときに至ることもあります。それが今の受難節の時であります。なぜならば,公の祈りも個々人の祈りも,その源はイエス様ご自身の生涯と十字架の出来事にあるからです。
イエスが公生涯の中でさまざまな所でさまざまな形で父なる神に祈りをされたことが、福音書をひもとくとその祈られた姿をみてとることができます。寂しいところで一人で静かに祈られた時、手をおき癒しの祈りをされた時、そして私には荒野の誘惑も激しいイエスの祈りの時であったかのように感じられます。そしてその公生涯の最後には神の子・救い主でしかできないような祈りをささげられたのです。
さて、イエスはキリスト・救い主としての公生涯の最後にどのような祈りをささげられたのでしょうか。それが今朝の聖書の箇所であるゲッセマネの園での祈りです。その祈りは,「悲しみのあまり死ぬほどである」というイエスの「悲しみと悩み」の中でささげられたものでした。「わが父よ,もしできることでしたらどうか,この杯(十字架の出来事)をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの思いのままでなく,みこころのままになさってください」。再度祈られます,「わが父よ,この杯を飲むほかに道がないのでしたら,どうか,みこころが行われますように」。願いを告げて,最後には神にゆだねていく祈りの本質がここで示されています。