【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2021年11月14日説教要旨
聖書箇所 ルカによる福音書18章1~8節
祈りの原理
福岡新生キリスト教会
竹田 浩
求めなさい。そうすれば与えられる。(マタイ7:7)
私達の信仰生活において祈りと言う事は大きなウエイトを占めています。何故ならば、私達の生活の中に神様の助けが必要な事が多いからです。ですからイエス様はその様な私達に「求めなさい、そうすれば与えられる。」と祈り求める事を教えて下さいました。神学者バルトは祈りの中心は求めであると、以下の様に述べています。「正しい祈りは感謝、悔い改め、崇敬の祈りでもある事は明らかである。しかし、大切な点は祈りは、徹底的には中心では、求めであり、それが祈りを祈りたらしめるものである事である。先ず、ただ求めでありそれから、また感謝、悔い改め、崇敬でもある。この他の全ての要素はあの中心的要素から独立的には存在せず、その中に含まれる諸要素なのである。祈りは何よりも先に求めの祈りである」更にバルトは以下のようにも述べている。「時間の中における我々の求めを勘定に入れて、それを歴史の中に実現させたもうのである」。
実にこの発言は祈りが私達の信仰生活において如何に重要なものであるかを教えているのである。私達が信仰をもって求める事をしなければ、神のみ旨はこの歴史の中に実現をしないと言う事である。
更にバルトは「この求めは何か漠然たるものにではなく、神の戒めによって神に向けられている事である。我々の求めはこの神から出て来て、神に戻る軌道の上で運動させられるのである」。なんと深い霊的な洞察であろう。祈りは神から出て来て、神に戻る軌道の上で運動させられると言うのである。父なる神の何とかして人間を救いたいと言う思いは、イエスキリストの中に熱く燃えていました。その熱く燃えていたその命は聖霊によって私達に届けられ、私達も求めへと導かれて行くのである。その求めは十字架の血と聖霊の執成しによって、父なる神様のもとに戻っていくのである。此処で重要な事は聖霊による導きがなければ、私達は自分では求める事が出来ないと言う点である。その点に関して、有名なフォーサイスは以下の様に述べている。「クリスチャンの祈りは実は彼らの中にあって祈る聖霊の祈りなのである。それは神の国の連帯的責任を負う祈りである。それはゲッセマネにおける格闘、父との苦闘に身を挺した、キリストの祈りの継承である。しかし、ともあれ、祈りは神がご自身に対してうったえ、神がご自身と戦う行為なのである。これが真の贖罪である。」何という深い祈りの理解であろう。バルトにしろフォーサイスにしろ、祈りは神から出て神に帰る求めであると教えている。この事を知る時に如何に聖霊の執成しが大事であるかと言う事が分かる。
(私達はどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが言葉に表せない切なる呻きをもって執成してくださるからです)ローマ8:26