私たちは約束された天の御国に入ろうとするならば、「和解」を避けて通ることは出来ません。この神の国への和解というものには、二つの側面があります。第一には神様との和解です。そして第二には人との交わりにおける和解です。第一の神様との和解のために、主イエス・キリストはこの地上にお生まれになり、十字架にかかり、三日目によみがえられました。この主イエス・キリストの御業により、私たちの罪は赦され、神様との和解が与えられました。これはいくら感謝しても感謝し尽くし得ないことです。そして、第二の和解です。神様との和解は、私たちに隣人との間の和解を求めるのです。このことは、ヤコブが兄エサウと再会する前に、神様と祈りの格闘をなし、神様からの祝福を受けたことにより、神様との和解が与えられ、それに続いて兄エサウとの和解へと事柄が進んでいったということが示されています。神様の祝福を受けたヤコブは、兄エサウとの和解という場に一歩踏み出さなければならなかったのです。
ヤコブは人間の知恵をもって作戦を立てました。贈り物であり、逃げる算段にしろ、会った時のしぐさにしろ、いやらしいくらいに計算しています。兄エサウに対しては「ご主人様」と呼ぶほどです。しかし、この計算通りエサウは動いたということなのでしょうか。決してそうではないと思うのです。私たちがなかなか和解することが出来ないのは、ヤコブのような行動が出来ないからだとも思います。頭を下げてくるのはそっちで、どうして自分から頭を下げなきゃいけないのか、お互いそう思ってしまうところでは和解は起きないのではないでしょうか。しかし、この和解の出来事が告げているのは、それ以上のことなのです。ヤコブはエサウが自分をまだ赦してはいないと思っていた。しかし、そうではなかったということなのです。「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」のです。ヤコブが思っていたのとは違う反応をエサウはしたのです。
悔い改め、和解を求める私たちのために、神様は私たちの思いを越えた祝福をもって応えて下さるのです。悔い改めたヤコブをエサウは喜び迎えたのです。これこそ、神様がヤコブに備えていた祝福だったのです。私たちにも、このような神様による祝福が備えられているのです。何故なら、主イエス・キリストが来られたからです。主イエスは、私たちと神様とを和解させるために来られました。そして、私たちは神様に向かって「アバ、父よ」(マルコ14:36)と呼ぶことが出来る者とされたのです。そうである以上、私たちには隣人との和解もまた、備えられているはずです。
主イエス・キリストの到来は、まず神様と私たちとの関係を築き直す、和解へと至らせる。そしてそのことによって、私たちの兄弟・隣人との関係も和解へと至らしめるということです。聖書が告げている神様の救いの歴史は、人類を、私たちを和解へと至らしめる、そういう目的を持ったものであるということです。そのような神様の御心の中で、私たちは今という時を生かされているということです。
2014.9.28 牧師 岩橋 隆二