【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2021年12月5日説教要旨
聖書箇所 ルカによる福音書23章39~43節
神様の愛と十字架
瀬戸 毅義
今日の日曜日はアドベント(Advevnt)2番目の日曜日です。
クリスマス前の約4週間をAdventといいます。降臨節、カトリックでは待降節といいます。意味はad(~へ)+venio(来る)。the Second Adventはキリストの再臨、最後の審判の日の意味。Advent calendarは降臨節暦。
この時期は救い主キリストの降臨・降誕を待ち望むときなのです。主イエスの降臨すなわちクリスマスを迎える心の準備をするとともに未来の再臨を待ち望む準備の時でもあります。
神の子キリストが人類の救いのためイエスという人間として現れたことをキリスト教の言葉で受肉(incarnation)といい、カトリックで托身といいます。
聖書に拠れば、イエス・キリストはもう一度この世に来られ救いを完成してくださるのです。キリスト教の言葉で再臨。英語でSecond Advent、Second Comingといいます。
私たちは救い主キリストがこの世界にこられたことを毎年、クリスマスという形でお祝いします。それだけではなく、イエスキリストがもう一度この世界にこられることを信じて待ち望んでいるのです。つまり待降節にはこの二つのことが含まれていると思います。
クリスマスは、イエス・キリストが、この罪の多い現実の世界に降臨されたこと、受肉されたことをお祝いするのです。しかしイエス・キリストの一生を見るとお最後は、まことにお気の毒なむごい十字架上のはりつけでした。ここで私たちは、十字架の意味をよくよく考えてみる必要があるのです。
毎日の新聞やテレビを見てください。他人を騙し嘘をつく人がいるのです。人のいない所で他人の悪口を言う人、他人に暴力を振るう人、殺人をする人がいるのです。神などはいるものか。なんでも勝手なことをするぞ。これが私たちのありのままの姿です。ああ、何という恐ろしい傲慢なことでしょうか。みなさんの心の中にも、表面には現れませんが、そのような心が少しでもありはしませんか。他人には分からない悪い心はありませんか。イエス様はそういう私たち人間のためにこの世界にお生まれになられました。
ずっと以前ですがあるキリスト教の雑誌で次の話を読みました。
Tさんは1950年愛知県に生まれ、中学校を卒業後、自動車関係の仕事をしていました。1970年から自分で板金工場を始めましたが、暴力団関係の金融業者からお金を借りました。厳しい取り立てに会い、お金が欲しくて身近なひと二人に生命保険をかけて殺すという恐ろしい犯罪を犯しました。それだけでは足りず、自分を追い詰めた金融業者まで殺したのです。青木という国選弁護士がクリスチャンであったことが彼に幸いしました。青木弁護士は彼に聖書を読むことを勧めたところ、彼は聖書を読みはじめました。彼は牧師を紹介され拘置所内でバプテスマ(洗礼)を受けるに至りました。その後彼の別れた妻までが聖書を学ぶようになりました。
彼は次のように言いました。
「私が犯した罪のためにどれほど多くの人を傷つけ痛めてきたことか。ご遺族の皆様をはじめ、親、兄弟、妻子の心にはかり知れない傷を与えてしまいました。愚かな私の行為のために、幸せであった生活も一瞬にして破壊されてしまったのです。この重荷を負わせてしまったご遺族の皆様には償っても償い切れない責任を感じ苦しみました。数知れない過ちに対して、自分ではとても償い切れないものであることを思いますと、私は永遠に裁かれ、滅びるより他にない者なのだと思いました。
ある日、自分の犯した罪の大きさに苦しみ苛まれていた時、尊敬する信仰の友が私に言いました。『今、君は失望しているが、私たちのような罪人を救うために、罪のない神の子のイエスさまが十字架にかかり、私たちの身代わりとなって天の神さまにお詫びしてくださったのです。私たちを罪と永遠の死より救うために、贖ってくださったのです。ですから、このイエスさまの身代わりの死は、君のものであり、私たちのものなのです。だから罪を悔い改めて、心からイエスさまを信じて大きな希望をもってください。そして、すべての重荷をひっさげて十字架の下に立つのです。
罪ある者を救わんとして生命を捧げた場所。絶対的な愛の血潮が流され、新しい生命が吹き出る所。そこが君も私も、そしてすべての人が立つ唯一の場所です。たとえ君のような大きな罪を犯した人間であっても、そこに立てば自分がいかに尊い者かを知り、人生が変えられるのです。神さまが御子を捨てたもうほど、汚れて哀れな者を愛してくださると証しされている。十宇架の下に立つべきです。」
この友の信仰にあふれたことばに、十字架の重さをしみじみと知り、イエスさまの愛に私の罪深い傲慢な心は打ち砕かれました。なんと神さまの御恵みとあわれみは深いことかと、この時ほど、神さまの愛に圧倒されたことはありませんでした。」(『百万人の福音』1992年3月号)
聖書は、次のように言います。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ロマ3:23-25)。