出エジプト記16章1~10節 (第1主日)説教要旨 牧師 岩橋 隆二
今日の聖書の箇所には、生きて行くために必要な飲み水が無い、食べ物がない、という場面が出て来ます。私たちがそのような状況の中にいたとしたら、どのような行動を取るでしょうか。しばらくの間、一緒に考えてまいりましょう。
エジプトから主の力強い御手によって脱出したイスラエルの民は、モーセに率いられて荒野の道を進みます。それは決して平たんな道ではなく、むしろ文字通り多くの困難が続く「荒野」の道でした。約200万人(壮年男子だけで60万人)のイスラエルの民が、これから40年間かかってカナンに辿り着く旅路です。地中海沿いの最短のルートを通って行けば2週間の道のりをなんと40年間もかかったのです。
この旅路の神様のご計画は、イスラエルの民が真により頼むべき方を知り、イスラエルのすべての必要を満たす方を信じて、従っていくために与えられたものでした。それによってイスラエルは、主とはどのような神であるかを知る経験をするのです。
わずか三日前に、イスラエルの民は神の偉大な御力を目撃しました。海が真っ二つに割れて、そこを歩いて渡るあの有名な場面です。そして、強力なエジプトの軍勢が海に沈むのを目の当たりにしました。しかし、三日間水が得られないと、またすぐに昔の不信仰な状態に戻りました。マラに着いて水を飲みましたが、その水が苦くて飲めなかったので、モーセにつぶやいたのです。以前の賛美と証しはどこにいったのか、疑いと背きを露骨に示しました。人間の本性は簡単には変わりません。恵みと感動に満ちても、少しでも苦しくなると、すぐに不信仰と不従順に戻ります。
神は、モーセの叫びを聞き、モーセに一本の木を水に投げ入れるように命じられました。驚いたことに、マラの水は甘くなって飲めるようになり、病人も癒されました。神は不従順なイスラエルを責め、懲らしめる代わりに、水のない砂漠で決して滅ばない方法を教えてくださいました。マラの苦い水を通過すれば、エリムの豊かなオアシスが備えられていました。
エジプトを出て一ヶ月半が過ぎる頃、一行はシンの荒野に向かいました。そこでイスラエルの民は、モーセとアロンに向かって不平を述べます。エジプトの国で奴隷生活であったときでも、肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたと訴えるのです。荒れ野でのイスラエルの民は約束の地カナンへの旅路で幾度となく不平不満を口にします。民は荒野において苦しい現状に直面する度に、すぐにエジプトでの生活を振り返り、過去を美化し、その中に逃げ込もうとするのです。
しかし、主はそのような不平に満ちたイスラエルの民に怒りを向けるためではなく、養うためにイスラエルの民全体を夕暮れは肉で、朝はパンで満腹にすると約束されます。荒れ野において飢え渇き、心は不平に満たされるイスラエルの民を、主は毎日「肉とパン」で満腹にして力づけ、約束の地までの40年を導き、主こそ神であることを示されるのです。