【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2018年7月8日説教要旨
聖書箇所 申命記21章15-17節、ヨハネ第1の手紙3章1-3節
「私たちは神の子と呼ばれている」
大野惠正
結愛ちゃんという女の子が虐待を受けた末に死んだという事件に悲しんでいます。「ママ、もうパパとママに言われなくてもしっかりと自分からきょうよりか、もっともっとあしたはできるようにするから、もうお願い、許して、許して下さい」という文章を書いて死んでいったことが分かっています。五歳の子が書いた親への嘆願と言ってよい文章で、この子がどんな思いで毎日を過ごし、呻くような想いを抱いて、殺されていったか。深い悲しみを抱きながら、この子を追悼しています。
今、子どもたちは祝福されているでしょうか。とても祝福されているようには思えないのです。どうしてか。物がないからでしょうか。いまの子の多くは、物質には恵まれています。しかし親の愛情が歪んでいる所為か、愛に飢えているという感じがしてなりません。
どうしてそんなことになるのでしょうか。子どもを授かると言うことのもつ本質がきちんと捉えられていないからだと思います。
子どもは親の持ち物でも、所有物でもありません。また親の愛の結晶でさえないのです。
こんな悲しい事件が起きないために、子どもは親の所有物ではないこと、愛の結晶でもないこと、そうではなくて、神さまがその命を望んで、親にではなくその子自身に、命を授けられたのだと考えることが絶対に必要です。
命は神さまからの授かり物です。このことをしっかりと据えておくことが大事です。
私たちの命は、途方もなく値高いことを、今日のヨハネの第一の手紙3章1節は教えています。口語訳にこうあります。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである」。ちょっと、読んで見て、ぼんやりした感じです。この箇所、新共同訳ではこう訳されています。
「 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
私たちの命を神さまは愛して下さっている。そのことを噛みしめなさいと言うのです。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどです。事実また、そのとおりです。ここでヨハネは、念を押しているのです。私たちは神の子である。事実そのとおりなのだ、とヨハネは言っているのです。
わたしたちは、誰もかも、神さまの子なのです。それは事実なのだ! この言葉を、この素晴らしい言葉を、しっかりと心に刻みつけたいと思います。あなたもわたしも神の子だ、と神さまは言ってくださるのです。そして結愛ちゃんも、間違いなく神の子なのです。人間の残酷さを越えて、ただ神さまだけは、この子たちを神さまのお子として下さっている。そう信じることだけが、この無惨な死を遂げた子どもたちを追悼する私たちの思いを慰めてくれるのではないでしょうか。 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。