【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年9月27日説教要旨
聖書箇所 創世記22章1節~14節
私達がささげる礼拝
京都洛西教会 山田光道
私たちは週ごとに集まり、主の日の礼拝をささげます。この礼拝を私達はどのような思いで受け止め、実行しているのでしょうか。
礼拝は根本的には私達が作り出すものではなく、徹底的に神様の側から与えられるものです。それは信仰が神より与えられるということに倣うものです。しかし与えられるものであるが、受けるだけの礼拝ではなく、会衆派の教会の伝統を受け継ぐバプテスト教会では、信徒は礼拝を構成し、これを作り上げていくという神に向けての、人に向けての使命も私達には与えられているのではないかということも考えられてきました。
この礼拝では、神をたたえる讃美が献げられます。祈りが私的な祈りではなく、参加者を代表する形で公祷として司会者、説教者、私達の神への献身をあらわす献金感謝の祈祷が代表者によってささげられます。そしてプロテスタント教会では、礼拝の中心としてルターの言う万人祭司の伝統に基づき牧師のみならず、キリスト者によって御言葉のときあかしが説教、宣教、証言としてなされます。主の導きの中で語る者と聴く者の関係が成立し、語る者は神の管(くだ)として取次ぎをなし、聴く者はそれを自らの信仰で受け止め、応答をなしていきます。この礼拝を行うという行為によって私達は新しい週の指針が与えられて主にあるこの世での生活をなしていくのです。そのような意味で礼拝は私達の命の源とも言えるものでしょう。
礼拝という行為は全体を通して、イエス・キリストの贖いの十字架のできごとと復活という甦りの出来事に、この世界に居ながらにして時間と空間を超えて立ち戻ろうとする行為です。それを私達はある時代を生きる人間として、主の再臨の時を待ち望みながら、変わらない形で続けていくのです。変化の際立つ人間世界に生きていて、常にその対応を迫られている私達だからこそ、「わたしたちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」(二コリント4:18)とのみ言葉が示しているように、変わるものではなく、変わらないものに永遠性を求めていく必要に迫られます。
このようにして、礼拝は私達神の導きを受けて生きる者が自らに対しても、他者に対してもつまり世界に対して発信する証の時と場なのです。