【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2021年5月2日説教要旨
エゼキエル書37:1-6
絶望してはなりません
瀬戸 毅義
今朝の聖書箇所は、以前にもお話しました。「枯骨の谷の幻―福音伝道の源泉」という題でした(2018年5月6日)。5月は教会の働き、聖霊に関することを扱うようにしています。今日は同じテキストで2回目です。
今朝の聖書箇所の中心は、失望、落胆のどん底にあるユダヤ人です。
その姿が枯れた骨という姿で描写されています。エゼキエルは紀元前597年にバビロンに捕囚となり、そこで預言者としてのつとめを果たしました。故郷のユダ王国はすでに崩壊し重要な町も姿を消しています。ユダの中心の丘陵地帯の人口もほとんど消失していました。
私たちの歴史には国が滅び外国に捕囚となったという、彼等のバビロン捕囚のような苦難の歴史はありません―敗戦という苦難は経験しました-)。
ユダ王国の滅亡は預言者の指摘のように、国民も指導者も真の神に従わなかったからでした。その結果のバビロン捕囚でした。
現代に例えればパスポートなくビザもなく、国の保護もなく、異国に居住するようなことです。
神の言葉を聞かない人々が、たとえ枯れた骨のようなありさまであっても神の言葉を聞き、神の霊がそそがれるとき、立ち直り生き返ることができます。
エゼキエルは主の霊に導かれて、広い谷に連れていかれます。1節の「主の手が私に臨み」の直訳は「主の手がわたしの上にあった」。そこは枯れた骨がたくさん捨てられている谷でした。以前に戦いがあった場所でしょうか。そこで問われます。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」
エゼキエルは従順です。逆らいません。この厳粛な問いに対して次のように応えるだけでした。「主なる神よ、あなたはご存じです」。もしそれができるなら、それは神の力を通しであり、神のことばに依ります。エゼキエルは一歩一歩と神に素直にしたがいます。彼は命じられるままに預言しました。その枯れた骨は生きた人間となりました。
絶望の民に復興はあるのか。かれは、枯れた骨の谷を見せられ、たしかな確信を得ることができました。人々の立ち直りと復興を確信することができました。彼はこうして希望を語り人々を励ましました。
捕囚時代はイスラエル民族の活力をためす最大の試練となりました。彼らは捕囚という民族的の期間を通じて大いに信仰の覚醒を与えられました。
国家を失った民族がはたしで存続できるのか。捕囚は、この世界史的な課題に答える彼らの最初の機会となりました。
民族保持のための軍備も武力も政治力すらもない彼らに,残された道は彼ら独自の精神的宗教的きずなによる結束以外にありませんでした。
この時代に、旧約聖書5書の編纂も着手されました。安息日の礼拝、共同体の集合の場所であるシナゴーグもこの時代にはじまっています。
詩編137には捕囚の頃の気持ちが表現されています。
われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した(137:1)。
あなたがたはおのおの隣り人に気をつけよ。どの兄弟をも信じてはならない。
兄弟はみな、押しのける者であり、隣り人はみな、ののしって歩く者だからである。人はみな、その隣り人を欺き、真実を言う者はない(エレミヤ 9:4、5)。
これはエレミヤの言葉ですが、現在の日本の状況と違いますか。同じです。
そのように荒れた人の心にも神の聖き霊がそそがれて変わるのです。
福音伝道に大切なことは、真の神様を信じお委ねすることです。