【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2024年6月9日説教要旨
聖書箇所 ヨハネによる福音書8章1~11節
罪に定めない
原田 寛
人々は、罪をおかしている現場を抑えられた女性をイエスの前に連れてきました。イエスの対応に注目が集まったことでしょうし、律法学者やファリサイ派の人々は、イエスを訴える口実にしようと目論んでいました。
イエスが、現場を押さえて連れてきた人々の勢いに沿って「石で打ち殺すべきだ」と言えば、イエスの教えを聞こうと集まっていた人々にとっては、「罪人を赦す神」を伝えてきたイエスの教えと矛盾していると感じますし、結果として。イエスに期待していた人々をつまずかせることになります。また、「打ち殺してはいけない」あるいは「謝罪や説明の機会を与えたら」と、かばうような言葉をのべるならば、モーセの律法を否定するばかりか、罪の現場を押さえられた言い逃れ得ない者に言い逃れの機会を得させよということになるのですから、正しく社会生活を送っている人たちの思いを逆なでし、社会の秩序を壊す者と印象付けられてしまいます。
ここでイエスの語ったことは、「罪を犯したことがない者が、まず、石を投げなさい」ということでした。イエスは、連れてこられた人の罪ではなく、連れてきた人たちの罪を問いました。その自覚は、ひとりひとりにあるものです。イエスに問われた人々は、年長者からはじまってひとり、そしてまたひとりと、その場を去っていくのでした。残ったのは、罪の現場を抑えられた人とイエスでした。
イエスは、「あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪にさだめなかったのか」と語りかけました。その人は「主よ、だれも」と応えました。そして、イエスは「わたしもあなたの罪にさだめない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われました。
イエスによって、罪に定められないということは本当に恵み深いことです。
石をおいてその場から去った人々は、イエスから「罪のない人から石を投げよ」と言われていました。つまり、自分の罪を認めた者たちです。自分自身で「罪あり」と認めて生きることになります。しかし、イエスの前にとどまったこの人は、自分を罪ある者としていました。イエスの前に出ることは、神の御子から「わたしもあなたを罪に定めない」と言っていただけるということではないでしょうか。これを恵みと言わずしてなんというのでしょうか。