2019年7月7日説教要旨
聖書箇所 ローマ人への手紙3章9~10節、28~30節
義人は一人もいません
瀬戸 毅義
キリスト教は、罪、罪といいますので評判が良くないそうです。人集めをする宗教の中には、人間の罪に触れないものもあります。そういう宗教に人はたくさん集まるでしょうが、キリスト教は罪を相変わらずいいますので嫌がられるのでしょう。今朝の聖書によると、「義人はいない、ひとりもいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。(ロマ3:10-12)とあります。重い深刻な言葉ですが、神の言葉ですから、聖書を軽々に扱うことはできません。
今朝は、人間は皆罪人であるということを学びたいのです。その際以下の文章を手掛かりにしたいと思います。
人は罪を犯すべからざる者にして、罪を犯す者なり。彼は清浄たるべき義務と力とを有しながら、清浄ならざる者なり。彼は天使となり得るの資格を備えながら、しばしば禽獣(きんじゅう)にまで下落するものなり。登っては天上の人となり得べく、降(くだ)つては地獄の餓鬼(がき)たるべし。無限の栄光、無限の堕落、共に彼の達し得る境遇にして、彼は彼の棲息(せいそく)する地球と同じく、絶頂Zenith絶下Nadir両極点の中間に存在する者なり。降(くだ)るは易(やす)くして登るは難(かた)く、降れば良心の責むるあり、登るに肉欲の妨(さまた)ぐるあり。わが願うところのもの、われ、これをなさず、わが憎むところのもの、われこれをなし、われは二個のわれより成立する者にして、一個のわれは他のわれと常に戦いつつある者なり。まことに、まことに、この一生は戦争の一生なり。
セネカ、かつて親友ルシラスに書き送っていわく。人生をもって快楽と言う者は誰ぞ。われに一日の虚日(きょじつ)あるなし。関ケ原、ウォータルーは、日々わが心中に目撃するところなり。
*関ケ原、ウォータルー(ワーテルロー)はともに有名な古戦場名。(内村鑑三信仰著作全集1、教文館)
内村鑑三『求安録』(1893/明治26)の冒頭の言葉です。私は直ぐにパウロやエレミヤの言葉を思いました。
すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。(ロマ書7:22-24)
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。(エレミヤ書17:9)
さて罪ということを考えてみましょう。
人には罪があります。 罪のない人は一人もいません。聖書はいいます。「義人はいない、ひとりもいない」(ロマ3:10) それ故、まず罪を認め、それを悔い改めることがキリスト教に入る正しい道です。さて、こういいますと、「でも、自分には罪がない。私はまだ、泥棒も、放火も、人殺しもしたことはありません。自分に何の罪があるか」と、罪がないことをしきりに主張する人がいます。結局のところ、これは罪の意味の誤解から生じているのです。普通、世間で罪人と呼ばれる人は、国家の法律を犯した人のことです。 その意味では、もちろんみんな罪人ではありません。それは、すべての人が国家に対する犯罪者ではないからです。しかし、聖書でいう罪は違います。それは国家の法律を犯したというのではありません。当然、それも含まれていますが、それはその一部でしかありません。それはごくわずかの人々だけが犯す罪です。キリスト教でいう罪とは神の掟を犯すことです。罪人とは神に対する犯罪人なのです。たとえば、国家の法律では人殺しをしなければ、殺人罪ではありませんが、聖書はいいます。「すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。」(ヨハネ第一 3:15)少しでも、他人を妬んだり憎んだりしたことのない人は世の中にいるでしょうか。罪は万人の心の中にあるのです。
鳥は卵からかえります。皆さんがその卵を割ってもそこに鳥はいません。無より有は生じません。鳥はすでに卵の中にいるのです。あたためれば、卵はかえりひな鳥となります。罪も同じように考えることができます。罪を軽く考えることはできません。世間に行われる恐ろしい犯罪も最初はその人の心にありました。それが実って罪となって表れたものです。
パウロは3章で旧約聖書の言葉をあちらこちらから引用しています。
10-12節 詩編14:1-3 伝道の書7:20
13節 詩編5:9、140:3
14節 詩編10:7
15-17節 箴言1:16、イザヤ書59:7-8
19節 詩編36:1
パウロは盲従的、迷信的に聖書の言葉を引用したのではありません。聖書の言葉は、彼の信仰と思想の一切の基礎でした。それを証明するものでした。聖書の言葉は、真理であり指導原理でした。日蓮の「依法不依人(えほうふえにん)」を思い出します。法に依りて人に依らず。「法」はクリスチャンには聖書のことです。クリスチャンは人間に依らず聖書に依ります。聖書に依って人生の大道を歩みます。
今朝のもう一つの聖句を見ましょう。「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(3:28)人が義とせられるのは信仰によります。これはキリスト教の最も重要な原則です。この原則は異邦人ユダヤ人の区別なく万国民に適用されるのです。神は唯一です。どんな人間も律法の行いで義とされません。信仰によって義とされるのです。この尊い信仰は自分の行いで獲得したのではありません。神の恵みにより与えられました。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」(エペソ2:8 口語訳)
なお冒頭の『求安録』は次の言葉で結ばれています。
キリスト信徒は絶え間なく祈るべきなり。しかり、彼の生命は祈祷なり。彼なお不完全なれば祈るべきなり。彼なお信(しん)足(た)らざれば祈るべきなり。彼よく祈りあたわざれば祈るべきなり。恵まるるも祈るべし。のろわるるも祈るべし。天の高きに上げらるるも、陰府(よみ)の低きに下げらるるも、われは祈らん。力なきわれ、わが能(あた)うことは祈ることのみ。
“But What am I?
An infant crying in the night:
An infant crying for the light:
And no language but cry”
然らば我は何なるか、
夜(よる)暗(くら)くして泣く赤子(あかご)
光(ひかり)ほしさに泣く赤子
泣くよりほかに言語(ことば)なし。
高名なクリスチャンであった矢内原忠雄(1893~1961)は、自らのありのままの経験を以下のように記しました。
私自身も律法の行いよって義とされることを何年も求めました。そして完全に律法の行いを守ろうとあせればあせるほど、それを裏切るものが自分の心の中から出てくる。抑(おさ)えようとするけれども、抑え切れない。昼開抑えていれば夜眠っている間に出てくる、夢に出てくる。で、自分が全く罪人である、自分は神の前に律法によっては義とされない。ただキリスト・イエスの十字架を私の贖(あがな)いとして仰いで、キリストは私の罪の贖いとしてあそこで死んで下さった。これを信ずるものは義なくして義とされる。このままで義とされる、ということを教えられた時に、はじめてキリスト教の信仰が自分のものになった。その事が解って以来、キリスト教を自分が捨てるとか、キリスト教を自分が恥とするとかいう事がなくなったのであります。すべての問題が解ってしまったのではありません。解らない事はたくさん残つているけれども、自分がキリストを信ずることによって義とせられた、ということは解った。それが解れば一番むずかしい急迫した問題が解ったのでありまして、キリストは自分を救い、自分を導いて神の国に入れて下さることは確実なのですから、他の事はゆっくりかかつて解らせて頂けばよいのであります。
(『ロマ書講義』1941/昭和16)