【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2021年9月19日説教要旨
詩篇119篇105節~112節
聖書と私たち
京都洛西教会
山田 光道
6月のこの場では、私は正典としての聖書ということを述べさせていただきました。今朝は、この聖書と私たちの関係、そして関わる姿勢について語りたいと思います。神様と私たちの間でみ言葉を通してどのようなことが受け渡されるのかということです。
聖書を読むということは、キリスト者として自分の人生に起こった出来事を聖書を通して確認していく作業でもあります。そのようにしてわかってくることがあります。私が生きてきたのだが、実は隣人をはじめとして多くの人たちによって、生かされてきたのだということに気づかされてくる。さらに言いますと、人々や出来事を通してもっと大きなものにうごかされてきたのだということが直観されることもでもありましょう。この作業は、自分一人でできるものではなく、教会生活、主にある兄弟姉妹との交わりの中でこそ得られ、自覚させられるものだということも忘れたくないものです。
聖書を読み続ける時に、私が読んでいくのですが、実は読まされている、導かれているという姿勢も養われていきます。つまり聖書を読む時の主体は私ではなく、導かれる神様の側にあるということが不可欠です。そのような姿勢で人生をかけて、仕事をかけて、生き方をかけて読むときにみ言葉は魂の糧として力となってきます。み言葉が私に迫ってくるような実感が信仰の世界にはあります。聖書の内容、言葉にはその時代の背景を踏まえないと理解できないものもありますが、解釈や歴史や人間を超越してみ言葉は直接に私たちに迫り、生かしていく力になることもあります。以上は、私のささやかな経験から考えさせられたことでありますが、聖書の読み方にはおひとりおひとりにいろいろの形があってしかるべきだと思います。ただ、読み進めていく中に感謝をもって受け止める箇所とともにとても気になる箇所、疑問に感じるところに出くわした場合は、私自身にとって重要なところと考えるべきでしょう。そしてその問題意識を持ち続けていくことが、信仰生活の上に重要ではないでしょうか。たとえそれが忘れ去られたとしても、その答えは思いもかけぬ形で与えられることがあるのです。