【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年10月6日説教要旨
聖書箇所 使徒行伝10章34~48節 コリント人への第一の手紙12章3節
聖霊のお働き
瀬戸 毅義
今朝は聖霊について学びます。まず、聖書に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」(コリント第1 12:3 後半)と記されています。このようにキリストを救い主と私たちに告白させるのは聖霊の働きです。
「わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。」(12:13節)私たちに信仰が与えられ、バプテスマ(洗礼)を受け教会に加えられたこと―クリスチャンとせられたこと―は、聖霊の恩寵的なお働きでした。
キリストのからだである教会に加えられたことと聖霊のバプテスマを受けたこととは同一のことです。「聖霊は信者の始めに与えられなくて、第2の恵みとして与えられるものである」などの考えは大きな誤解であり聖書的に根拠はありません。(渡辺善太『銀座の一角から』「聖霊の降臨と教会の創設」)
そもそもクリスチャンになった時に聖霊が与えられていなければ「イエスは主なり」と告白できません。聖霊に関して多くの誤解があるようですから、このことを正しく理解しておくことが重要です。
「私はクリスチャンであるが、聖霊をいただいたのだろうか?」皆さんにそういう聖書の読み違いをしてほしくありません。そもそも聖霊が与えられていなければ「イエスは主なり」と告白できません。したがってクリスチャンになることはできません。
私はキリスト教とは無縁の仏教の家にうまれました。そういうものが高校生の頃、教会に行きバプテスマ(洗礼)を受けクリスチャンとなりました。愚かな世間知らずのつまらないものが、60年もずっと教会とつながり信仰を持ち続けました。そうでなければトンデモナイ奴になっていたかもわからないのです。そういう愚か者が教会に導かれました。聖霊の導きがなければ考えられないことです。人が普段は行ったこともない教会に行きクリスチャンとなる。さっぱりわからない説教を我慢し、ついには献金までするようになっている。キリストを救い主と信じクリスチャンとなることは大変なことです。奇跡です。聖霊のお働きがなければあり得ないことなのです。皆さんもお考えになってください。きっと思い当たることがあるでしょう。
ここで少し考えていただきたいのです。聖霊とはどのようなお方でしょうか。聖霊に満たされた、「リバイバル」伝道・・・。拡声器や楽器音楽で福音の大宣伝をする。違うような気がするのです。聖書の言葉を読ませていただきます。
「彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。」(イザヤ書42:2-3)これはイエス・キリストがなされたことでした。
また「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)とあります。イエス・キリストは求める者の心を無理にこじ開けたり、信仰を強制されたりしないのではないでしょうか。それでは、聖霊はどんな実をクリスチャンに結ばせてくださるのでしょう。
御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実…とあります(ガラテヤ5:22-23)。聖霊の結ぶ実か否かは、聖書のことばで判別できますね。「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである」(マタイ12:33)。
肉の結ぶ実についても聖書は記しています。不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいとあります(ガラテヤ5:19-21)。
最後に、聖霊はクリスチャンの救いを成就してくださいます。
「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」(ローマ8:26)。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8:28)。
内村鑑三著『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』より。
1883(明治16)年5月東京で第3回全国基督教信徒大親睦会が開催されました。23歳の内村鑑三(1861~1930)も出席し「空ノ鳥ト野ノ白百合」と題して講演しています。その時のリバイバルについて以下のように記しています。冷静な観察であり、貴重な記録です。
・・・熱心なメソジストの説教者から、私はこの言い表しようのない聖霊の賜物を得る方法を教えられました。私はそれを自分に応用しようとたいへん熱心につとめ、自分の「いつわりやすい心」に精神力を集中させました。それと同時に他方でハクスリー、カーペンター、ゲーゲンバウルのことは悪魔にもとづく幻覚とみなして目を閉ざそうとしました。しかし、ああ!「汝の罪は許されたり」との喜ばしき声は、生理的にも精神的にも霊的にも、私のいずれの鼓膜にも聞きとられませんでした。苦しみ悶え胸をたたく日の続くこと三日に及んでも、相変わらず私は堕落の子のままでした。キリスト信徒の仲間の前に、みすからを特別に天の賞でたる者とし、希望と喜びとに充ちて示すような、きわめて羨むべき特権はついに私には拒まれたままでした。私の落胆は実に深いものでした。「リバイバル」というものは、もともと一種の催眠術、心理電気的な現象にもとづくものとして説明すべきでしょうか。それとも私の堕落の深さが、それを感じない真の原因なのでしょうか。そうです。世界はたった一日や一週で創造されたのではありません。私はメソジストの友から示された道と異なり、もっと「自然」な過程を経て創造されていく道に、まだ希望をつないでよいのかもしれません。
(鈴木範久訳、岩波文庫、2017年、131-132頁)