ユダ王国の10代目(全20代)の王ウジヤの治世は、ユダの王国史上とても長く(約50年)、繁栄に富んだものでした。しかし、この輝かしい繁栄と栄光は、ユダの地方諸都市の民衆の犠牲の上に成り立っていました。そして、ウジヤはイスラエルの王の務めとして、踏み越えてはならない一線を越えてしまいます。「ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした」(歴代志26:16)。ウジヤが死んだのは紀元前740年の頃であろうと言われています。彼が亡くなって人々の不安が高まっているときに、イザヤは神からの召命を受けます。このような時代と社会の中で、イザヤは神殿に仕える祭司または宮廷に仕える預言者として働いていたと思われます。
彼は神殿で祈っていました。ふと目を上げたその時です。神様が高い天に座っておられるのを見ます。上空には不思議な生き物セラフィム(天使)が飛び交い、互いに大声で呼び交わしています。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。そのとき神殿はグラグラと揺れ、みるみる煙がたちこめました。イザヤは叫びます。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」(5節)。イザヤの胸に、今までの自分の罪ある姿がよみがえってきたのです。7節後半「あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」とあります。イザヤは罪におののいたその瞬間に、その罪を取り除いてくださる神に出会ったのです。イザヤはこの時はじめて贖罪の経験をしたのです。
主の呼びかけが響きます。8節「わたしはだれをつかわそうか。だれが、われわれのために行くだろうか」。イザヤはすぐさま答えます。「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。このイザヤの召命告白に対して告げられた主の召命の告知は、驚くべきものでした。主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。とても難しい表現です。実はこの言葉は、この後イザヤの活動が人々の間にどんな反応を呼び起こすのかを予告し、「民があまりにも頑ななので、残念ながらそうでしかあり得ない」ということを、逆説的に語るものであると考えられます。イザヤが担って行く使命はどれほど困難なのか、その言葉を聞く民はどれほど頑ななのかを、主はあらかじめ告げておられるのです。「私をお遣わしください」と答えたイザヤでしたが、その後の働きは困難に満ちていました。神さまはそれを初めからご存じの上で招かれたのです。イザヤは困難に直面したときに、この「召命」を繰り返し想い起こし、再び力を得てその使命に励んだのです。
牧師 岩橋 隆二 2014.10.5説教要旨