【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2023年10月22日説教要約
聖書箇所 マルコによる福音書8章34~38節
自分の十字架を負って
宗広 一美
今日の<みことば>について、そもそもイエス様が世に来られた理由、目的は、何なのかを考える必要があります。マルコによる福音書の冒頭の言葉は、次のようです。“神の子イエス-キリストの福音の初め。”です。福音とは、英語ではグッド-ニュース:善き知らせと訳されています。もっと平たく言えば、人が幸いになるための<みことば>です。この人が幸いになるための<みことば>を与えるためにイエス様は世に来られています。それでは、人が幸いになるための<みことば>とは何でしょうか。
このことについて、こう言われています。“・・恵みと真理は、イエス-キリストを通して現れた・・”(ヨハネ1:14,17,18)と。そしてその中心にある<みことば>は、神の国を指し示す新しい戒めです。すなわち“わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しなさい。”です。なぜなら人が自らの力で守り得なかった神様からの幸いの十戒をイエス様ご自身が自ら負って十字架復活の愛となって下さったからです。
それ故この愛を与えるためにこそ福音となられたのが、イエス様でした。それも新たなる幸いの生を生きるための十字架復活(愛)であり、互いに愛し合える神の国への道を開かれた十字架復活(愛)でした。ですから「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救うのである」とは、死ぬことが、生きることに繋がっています。イエス様の言われた人の子は、多くの苦しみを受けて、三日後に復活するとは、単に十字架のみを指していません。イエス様の十字架は、復活の十字架です。そしてイエス様がそうであるからこそ、私たちの負うべき十字架を復活の十字架に変えることがお出来になります。それも新たなる幸いの生を生きるためにです。イエス様の言われる“死”は、イエス様の十字架復活の愛を生きる生を意味するからです。それが、私たちにとっての福音となっています。