【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2019年1月27日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書 25章14節~30節
足らんと?
梅木 光男
2019年がスタートしてもう1ヶ月が経過しようとしています。年頭に当たり「我々は何のために生きるのか」について本日はマタイ福音書25章の神の国の例えシリーズの「タラント」から取り上げました。
ここの箇所は主イエスが十字架で処刑される直前のメッセージで非常にわかり易い箇所ですが、内容はとても奥深くともすれば曲解する恐れがあります。
ここでは「主人」と「僕」の関係を紐解く必要があります。この3人の僕に主イエスのたとえ話を聞いている弟子たちあるいは我々一人ひとりを重ねることができます。我々は自分が僕だということを忘れて勝手気ままに行動しがちであります。 我々の命は主人の手に委ねられていることを肝に銘じる必要があります。
もう一つの側面は主人が留守の間財産を僕に委ねられることです。それは神様が我々の手伝い(助け)を求められていることです。信頼に値する仲間として尊重され権限を与えられることです。同等に相応しい神聖なものとしての扱いです。しかも「我々の能力に応じて」で、我々の思いではないのです。一人ひとりに合わせて神の仕事が委託される、3人の能力を評価して差をつけているのではありません。この委託されたタラントをどのように使うかが問われているのです。
5タラントと2タラントの人は付託された財産を増やしましたが、1タラントの人は恐れのために金を地中に隠しただけで何もしませんでした。前者は祝福と更なる恵が与えられましたが、後者は叱責され主人の信頼を裏切り自分の「命」を埋めたことになるのです。
我々は神様を主人として受け入れそれを第一義に考えること、そして主から与えられたタラントを活かして生きることが求められています。結果「恐れと不安」から「喜びと祝福」へ招かれることとなるのです。