逃れる道を備えて下さる父なる神
いよいよ皆様に語る説教は、今日を含めて三回となりました。残る三回に何を語るかが問われました。祈って神様の導きを求めますと、聖書の釈義的説教よりも、伝道者として52年間福音宣教のために働いてきた途上で、窮地に追い込まれた時に神様が逃れる道を備えて下さった出来事を語るように促されました。「逃れる道を備えて下さる神様」を語ることは神様が今も生きて働いていておられることを証しすることです。コリント人への第一の手紙10章13節に「あなたがたの会った試練で、世の常でないないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように逃れる道を備えて下さるのである」とあります。
人が重い病気を患い死に至ること、それは人に定められたこと、世の常です。私の妻も多くの人と同様に癌を患い、数回救急車で病院に運ばれて、遂に久留米大病院の緩和ケアの病室で過ごす身となりました。一年の命が三年永らえる恵みをいただき、年末と新年に病状が不安定になりました。1月3日にかなりの出血があり、動悸と息苦しさを伴う夜を過ごし、家族が傍にいて欲しいと願ったと聞いて、1月5日以後は、家族のために用意されている寝室で過ごすことにしました。これは私にとって初めての経験でしたが、予想以上に疲れる付き添いでした。疲労が蓄積して私自身が倒れてしまうのではないかと、緩和ケアの看護師長さんが心配なさるほど、疲労が顔に現れ始め、五ヶ月近い病院通いの疲れが心身に自覚され、心臓バイパス外科手術を受けて、現在でも要注意患者である私は健康面での窮地に追い込まれました。その時に私自身の中でイエス様の言葉が響いてきました。「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ福音書15章13節)。
妻は私にとっての一番近い隣人であり、また伝道の生涯を共にして来た戦友です。「妻のために命を捨てられるか?それほどまでに愛していると言えるか?」という問いに対して、「最後まで妻の傍にいてあげて、同時に私の健康を保ち、妻を主イエスの元へ送り届けることが夫の責任です」と答えることが最善と考えて病院での宿泊を続けたのですが、深刻な疲れが周囲の人々にも顕著に見られるようになり、共倒れの危険に追込まれた時に、私たち夫婦は真剣に祈りました。その結果、神様は逃れ道を備えて下さいました。西鉄小郡駅近くの嶋田病院の緩和ケア病室に移る道です。
昨年9月に久留米大病院の緩和ケアを選んだ理由は耳鼻科があるからでした。凡そ5ヶ月が経過し、緊急時に喉を切開する延命処置はしないと語りましたので、ガーゼで出血を抑える処置しか残されてはおらず、耳鼻科のない嶋田病院でも看護師さんが行う処置は同じなのです。1月24日(金)に嶋田病院の緩和ケアを訪ねて、主任看護師さんと語り、予約しましたので嶋田病院の緩和ケアに移れば私が病院で寝て過ごす必要はなくなります。啓子が眠ったことを確認して、自宅に帰って眠ることが出来るのです。このように神様は「逃れる道」を備えて下さいました。
三週間後を覚悟していたのですが、嶋田病院の緩和ケア病室が空いたと昨日連絡が入り、今週の2月6日に転院することに決まりました。ハレルヤです。明日2月3日、この日は私たち夫婦が病める人々を覚えて祈ることを一日も欠かさず続けて来て丸3年になる日です。千日祈願が成就し、11月3日の啓子による証しが実現し、明日は3年祈り続けられた感謝を捧げる日です。先週の我が家における最後の祈祷会で、藤井芳子姉と梅木幸子姉が「3月30日の妻の誕生日までは生き続けると信じています」と信念をもって語られ、心強く励まされたのですが、それは6ヶ月半の病院見舞いを続けることを意味します。神様が備えて下さった感謝の逃れの道です。
私が高校三年生の時に献身し、一年浪人中に肺結核を患い、大学入学が閉ざされたように思われ悩みました。受験を私立大学に切り替えて、合格が許された大学は国際基督教大学であり、そこでの学びはまさに神様が用意して下さった逃れの道でした。大学卒業後、西南学院大学神学部での学びを終えて、明石開拓伝道に従事しました。土地、教会堂、牧師館が外国伝道局からの支援で与えられたのですが、私は牧師としてのアイデンティティを失い、6年間の伝道に終止符を打ち、アメリカの神学校での学びを志し、留学試験に合格した年の夏に、神学部で教会史とバプテスト史を教えておられた小林昌明助教授が喘息をこじらせて1968年にお亡くなりになりました。
留学が決定した私に小林先生が教えておられた科目を専攻して帰国し、神学部で教えるつもりで学んできて欲しいと尾崎神学部長から説得されて承諾し、2年間の連盟からの経済支援が理事会で決定し、家族同伴でアメリカKY州ルイヴィルのサザン・バプテスト神学校での学びが始まりました。猛勉が実り、修士課程を2年で終える事が可能となり、連盟の経済支援が終わるので、神学部で教える道が開かれているかを神学部長に尋ねましたところ、神学部紛争により教える道は閉ざされていることが分かり途方に暮れました。そこで真剣に父なる神様の御心を求めて祈ったのです。祈りの中で三つの事が示されました。第一に博士課程への道を拓いて下さること、第二に経済的問題は保証すること、第三は帰国後のことは神様に委ねよということでした。
具体的に、神様はどのように逃れ道を拓いて下さったのでしょうか?修士論文を仕上げる頃に指導教授から博士過程に進むことを勧められ、試験にパスすると3年間の奨学資金が保証され、妻も神学校附属幼稚園の教師に採用されて、経済問題は解決しました。博士課程を終えると、福岡市南区の長住バプテスト伝道所の牧師に招聘され、翌年の1975年春から神学部でバプテスト史と教会史を12年間教えることになったのです。「帰国後のことはわたしに委ねよ」と言われた神様の約束を信じた結果、牧師の道も神学部で教える道も同時に開かれたのです。
主イエス様の霊が注がれ、長住伝道所に次々と救いが起こり、教会組織・連盟加盟後に、野方伝道所、福間伝道所、片江伝道所を産み出す母教会となり、十三年の間に178名のバプテスマが与えられました。教会の急成長による多忙に加えて、神学部での教育と研究に疲れきり、私は牧師を辞任し、暫くの休養と学びが必要となったのです。その時も神様は思いがけない逃れ道を備えて下さいました。
福岡女学院の院長、岩橋文吉先生から、「1990年4月から4年制の福岡女学院大学を新設するので専任教員としてキリスト教学を教えて欲しい」という驚きの招聘でした。問題は1987年の夏から90年の3月迄の二年半をどこで過ごすのかが大きな問題となりました。87年に長住教会を辞任することは既に決定していました。神様はどのようにしてこの二年半を埋める逃れ道を拓いて下さったのでしょうか?
神学部で日本キリスト教示史を教えておられたパーカー宣教師が、外国宣教団発行の雑誌の中にKY州ジョージタウン大学の宣教師館に一年住む伝道者を求めていることを教えて下さったのです。ジョージタウン大学の学長は何と私の博士論文の主任指導教授、パターソン先生でした。手紙に対して直ぐCome Onの返事をいただき、私は客員教授という肩書きをいただき、仏教とキリスト教の比較研究を教えることになりました。その年にトヨタのエンジン工場の新設に伴って多くの日本人家族がジョージタウンやレキシントン市に住むことになり、イマヌエル・バプテスト教会で日本人伝道をすることにもなったのです。私は教え伝道する傍ら、夢の実現を祈っておりました。それは「カルヴァン主義・バプテストの起源の研究」を論文としてまとめ、博士論文と合わせて出版したいという夢です。強い願いが叶う機会が訪れたのです。論文を書きながらフスディック先生の『祈りの意味』も翻訳することが大学の図書館資料や文献により可能となりました。神様は見事に二年半を埋めて下さったのです。
1990年4月から小郡市内に新設された福岡女学院大学でキリスト教学を教える仕事が始まりました。その年に『祈りの意味』の初版がヨルダン社から出版され、また『バプテスト教会の起源と問題』という題での出版も大学の出版助成金によって可能となり、夢が実現しました。女学院大学で教えながら、福間伝道所の協力牧師になり、教会堂の二階に牧師館と教育館を完成して、野口直樹牧師を招聘しますと直ぐに教会組織がなりましたので、1994年春から筑紫野二日市教会の協力牧師となりました。私はその年の6月30日に過労のために心筋梗塞で倒れたのですが、幸い既にカテーテル手術が可能となっていましたので、その手術のお陰で九死に一生を得て、元気を回復し、2001年4月から筑紫野南伝道所の協力牧師となり、教会を支える恵みもいただきました。
このように、神様は私が窮地に追込まれた時に、必ず逃れ道を備えて下さり、その道を進んでゆきますと、恵みの働きの場所が備えられていたのです。
2006年に福岡女学院大学を健康上の理由で辞任退職し、7月に心臓のバイパス手術を受けて、健康を回復してから、梅木光男兄弟が大阪に転任してからは月二回の説教をしたのですが、教会の礼拝が充実し、昨年7月に教会組織会議と11月の連盟年次総会での連盟加盟という祝福が与えられました。
最後に、「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように逃れる道を備えて下さるの
である」という御言葉が私たち夫婦に実感として与えられたもう一つのことをお話しして今日の説教を締めくくります。
実は妻は最近声を大きくしてしゃべると直ぐ出血するようになりましたので、病室への見舞いも控えて頂いてきました。1月5日以降、病院に泊まりながらも、病室においては最小限の話に留めて、沈黙の付き添いが多くなりました。私の両耳の聴力が衰えてきており、妻の語る言葉が聞き取り難くなりました。いつこの世でのお別れになるかも知れないと思う故に、妻の心が少しでも安らぎ、夫が傍にいてくれる嬉しさが自然に感じられるように、何のストレスもなく、時が流れることを望むのですが、対話がままならない沈黙を強いられる状態では、ストレスが生まれます。
この窮地に追込まれた私たちの悩みを察して下さった神様は、いつものように逃れ道を備えて下さり、悩みを解決して下さいました。それは病室でも携帯を使って話すということです。不思議なことに、病室内で語る私の小さい声も互いに携帯を手に持って語れば妻には良く聞こえ、私にはマスクをかけたままでの妻の小さい声も良く聞こえるのです。全く有難いことが1月31日の金曜日から始まりました。
病室を訪れる看護師さんも始めはびっくりされますが、事情がわかればユーモラスな風景です。お互いに大きな声を出さずに、しかも全ての語る内容は全て分かるという誠に有難い方法があることを神様は教えて下さったのです。これによって、私たちのSpiritual Painが消えてゆきました。「神は、神を愛する者たち、ご計画に従って召した者たちと共に働いて、万事を益として下さること」(ローマ8:28)は事実です。車で7分の嶋田病院のホスピスも逃れ道として備えられました。ただただ神様への感謝があるのみです。
教団の賛美歌494番の一節を読んで終わります。
わがゆく道 いついかに なるべきかは つゆ知らねど
主は御心 なしたまわん
備えたもう 主の道を 踏みてゆかん 一筋に。アーメン。