「匪賊に遭った話」 瀬戸毅義
矢内原忠雄[1]の書物を読みますと体験したことが記してあります。
1932(昭和7)年の9月に39歳の矢内原は、満州旅行をしました。満州国建国の1年目です。彼は日中戦争を批判的に見ていました。また日本の植民地経営、台湾や朝鮮などについても研究をした学者でした。当時満州国の首府は新京(今の長春)でした。其処までは満鉄で行けましたが、そこから向こうはソ連の鉄道でしたが、ハルビンに行こうとしていました。ハルビンまでの優等車の乗車券と座席券を買おうとしました。旅館の番頭さんに頼むと番頭さんは「座席券は不要でございます。座席券の要らない車室もあります。私が座席を取っておきますから買うに及びません」と言うのです。頼んでもそういいますので、妙に頑固な男だと思いましたが、その通りにしました。汽車が進むに従ってロシア人の乗客、中国人の乗客と増えてきました。あと一時間ばかりでハルビンに到着かと思われる頃、急に電燈が消え真っ暗になりました。列車が激しく揺れて止まりました。夜の十時頃です。匪賊が線路のレールを外して待ち伏せしていたのです。銃撃されて匪賊が飛び込んできました。矢内原さんは同行のものと一緒でしたが、内側から鍵をかけて休んでいたのでした。外から激しくとを叩いて「カイ」(開)と叫んでいましたが、通り過ぎて行きました。矢内原さんはうつむけに寝たまま祈っておりました。 2時間ほどして救援隊がくるまで、じっと息をひそめていたのです。
あとで中国人車掌が戸を開いてくれました。後でわかりましたが、80人ばかりの匪賊が襲撃して、頭を打ち抜かれた日本人もいました。上着もチョッキもズボンも靴もすべて脱がされた者もいました。500人ほどの乗客がいました。日本兵4人、日本人乗客1名、ロシア人乗客2名が命を失いました。不思議なことに列車の中央部の矢内原さんたち4人がいた一部屋だけは完全に見落とされたのです。其処には鶏を持っている中国人や矢内原さんたちでした。だから賊の顔も見ませんでした。戸は開けられることはありませんでした。
矢内原忠雄はさらに述べています。
・・・皆さんは私が運がよかったと言って喜こんで下さいます。しかし運ではないとはっきり言えます。私は前にも申した通り、この事件の最初から少しも恐怖危険の感じが起りませんでした。むかしモーセがイスラエルの人を救い出す時に、家の戸口に子羊の血が塗ってあって目印となり、主の使いが通り過ぎて助かりました。だから安全な場所に隠されていて、少しの危険も身に及ばぬという安心が初めからありました。賊が来て部屋の前を通り過ぎた時には、ちょうど大きな方が袖を拡げて、後にうずくまっている私どもを掩い隠したがために、賊が気付かずに過ぎて行ったような気がしました。何だかその時のような心安らかさが感じられたのです。確かにこれは神様が私を賊の目から掩い隠して下すったのです。神様が一寸袖の端を拡げられると、それで私は危地におりながら絶対安全であったのです。この事故の後で、私は聖書の詩篇を開けまして第91篇を読み、これこそ私自身の詩である、感謝であると心に叫びました。
いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。(詩篇91:1,2,4,7。口語訳)
矢内原忠雄はこう結んでいます。
「私がこうして匪賊の害から守られましたのは、私自身に何か人より勝れた道徳があるからではありません。神様は私に見どころがあるとして、私自身の値打ちのために私をお守り下すったものとはどうしても思えません。ただ私は神様を信じ、キリストの救いを信じて来ました。そして神様は信ずる者をすてないと約東しておられます。ただ信仰の故に、しかも信仰の強い弱い大きい小さいということでなく、また信仰の結ぶ愛の行がどれほど出来る出来ないということでなく、とにかく平生(へいぜい)信仰を持続けるというそれだけのことで、神様は信ずる者を守って下さる。人は神様に不義理をしましても、神様は信ずる者に守りの約束をお忘れになることはありません。不断から丈夫な家に住んでいる人は、暴風雨が来ても雨もり一つしないように、平素から神を信じて神を避所とし、神の軒の下に昼も住まい夜も宿っている者には、如何なる危険が周囲に突発してもその生命は安らかであります。たといこの肉身の生命は失うことがあっても永遠の生命を与えられて、神の栄を目の当り見せていただくのであります。・・・私がこうして無事に保たれたのには如何なる意味があるか私は知りません。正直なところ、自分は一度死んだものとして余命を神に捧げて奮闘するというような悲壮な精神を私は実感しません。私は事件の後も前と同じように、あたりまえの信仰生活を続けて行くだけです。ただ解りましたことは、神様が信ずる者を守り給うこと、そしてその守りを受けた私は神の恩恵を万人の前に言い表わそうということだけです。何度でも繰返して、何時までもこの神の御恵を言い表わして止まないでありましょう。
われ主の事をのべて、主はわが避け所、わが城、わがより頼む神なりといはん[2]。
[1] 経済学者。愛媛県生れ。東大卒、同教授。1937年日中戦争批判により辞職。第二次大戦後、東大総長。植民政策・国際経済論の権威で、無教会派クリスチャンとしても著名。著「植民及植民政策」「帝国主義下の台湾」など。(1893~1961)広辞苑第六版より引用。
[2] 矢内原忠雄全集 第26巻:83-90頁。『匪賊に遭った話』