【聖書箇所】
【説教音声ファイル】
2019年2月3日
聖書箇所 ローマ人への手紙9章1節~5節
信教の自由の大切さ ー 内村鑑三不敬事件
瀬戸 毅義
2月11日(月)は「建国記念の日」国民の祝日です。バプテストの教会、日本基督教団などではこの日を「信教の自由を守る日」と呼び「信教の自由」の大切さを覚える日としています。
憲法の自由には思想・良心の自由、信教の自由、学問の自由、職業選択の自由、居住移転の自由、海外渡航の自由などがあります。これらの自由はすべて重要なものですが、中でも信教の自由は大切なものであります。
1945年8月15年以前の学校では天皇の写真が入れてある「奉安殿」の前を通る時は、学生生徒は勿論のこと訪問、参観の人々に至るまで、敬礼しなければならないとなっていました。また宮城前を通行する時は、敬礼を行う。電車、自動車に乗っている時も、謹厳な心持ちになり姿勢を正すこととなっていました。(国民礼法研究会編集『文部省制定 昭和の国民礼法』帝国書籍協会 1941(昭和16)年)その頃の様子を私たちは知りませんが、大変窮屈・不自由なことだったと思います。日本だけではありません。日本統治下の朝鮮でも京城府(ソウル)南山に朝鮮神宮(チョソンシングン)が建てられました。祭神は天照大神と明治天皇でした。日本の敗戦後まもなく社殿は撤去され,今はソウルの街を眺望できる南山(ナムサン)公園となっています。
1930年代半ばから総督府は1面(村)1神社の計画を推進し、さらに各家庭にも神棚を作らせ、〈天照大神〉のお札を買わせ、毎朝礼拝するように奨励しました。神道による皇民化をはかるため神社参拝が強要され、1面(村)1神社計画が推進されました。「私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス」という3ヵ条からなる(皇国臣民ノ誓詞)が制定され,学校では毎朝これを斉唱し、職場や家庭でも強要されたのです。人の魂は尊いものでありますから、信仰の強制は大きな間違いです。絶対にすべきことではありませんでした。
このように歴史を見ますと、信教の自由ということが如何に大切なことであるかがわかります。
以下の出来事(内村鑑三不敬事件)も信教の自由がなかった頃におきました。私たちクリスチャンはこの出来事を忘れないようにしたいと思います。今一度概略お話いたします。
1891(明治24)年の1月9日、東京の第1高等中学校で教育勅語奉読式のため、教授60名、学生1000名が倫理講堂に集まりました。教授・生徒は5人ずつ進み出て、壇上にあがり勅語の晨署(明治天皇の署名)に奉拝することになりました。その中に前年の9月に嘱託教員となったばかりの内村鑑三がいました。内村はその時31歳でした。
式場の正面中央に明治天皇及び皇后の写真が掲げられていました。前面の卓上には特に晨署(しんしょ)された教育勅語が安置されていました。その傍らには一高の校旗である護国旗がありました。
内村はこのようなものものしい雰囲気の中で、勅語の最後にある明治天皇の署名に、当日の校長代理久原躬弦より(校長は病気で欠席でした)礼拝的低頭をせよと命じられました。礼拝的低頭(最敬礼)とは身体を45度曲げることです。第3番目に上った彼はちょっと頭を下げましたが、深々とはしませんでした。これが不敬事件といわれるものでした。
アメリカで贖罪の信仰と合理的な近代精神を学んで帰国した彼には、どうしても明治天皇のものとはいえ署名に礼拝することはできなかったのです。決して勇気りんりん、決然とオジギを拒否したのではありませんでした。然し結果として、彼は晨署礼拝、天皇礼拝(皇帝礼拝)を福音主義の信仰に基づいて否定したのです。この事件の大きな歴史的意義はこのことにありました。(小沢三郎『内村鑑三不敬事件』)
内村の行為は、多くの新聞や雑誌に取り上げられ大きな事件となりました。しかし内村が払った代償は余りにも大きいものでした。彼は依願退職となり、第一高等中学校に辞表を出しました。在任わずか5ヶ月でした。二つのJ(JesusとJapan)のために己が命をもささげるとまで言った内村にとり、このような非難中傷は耐えがたく辛いものでした。信教の自由があれば、このような出来事は決して起こらなかったでしょう。
この時の内村の心中が『キリスト信徒の慰め』の中の「国人に捨てられし時」に書かれています。以下はその一部です。
「余の位置は、可憐の婦女子が、その頼みに頼みし夫に貞操を立てんがため、しきりに夫を頌揚したる後、ある些少の誤解より、この最愛の夫に離縁されし時のごとく、天の下には身を隠すに家なく、他人に顔を会わせ得ず、孤独寂蓼、言わんかたなきに至れり。この時にあたって、ああ神よ、なんじは余の隠れ家となれり。余にまくらする場所なきに至って、余はなんじのふところに入れり。地に足の立つべき所なきに至って、わが全心は天を逍遥するに至れり。」
内村はこの事件のあと、もはや天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇室などとは言いませんでした。天皇の名によって迫害されましたので、天皇を尊崇する気持ちがなくなりました。人間を神として拝んだりすることは大きな罪であります。聖書には「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(出エジ20:3)とあります。
さて、あの痛ましい不敬事件から、54年後の1945年、日本は敗戦の辱めを負いました。敗戦より3年後の1948年の6月19日、衆参両議院で教育勅語の排除と失効の決議がなされました。
「思うにこれらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損ない、且つ国際信義に対して疑念を残すもととなる・・・・政府はただちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の決議を完うすべきである。以上決議する。」
ここに内村の行為の正しさが証明されたのでした。神は公平なお方であり、時が来れば正しい審きをしてくださいます。