【説教音声ファイル】
2019年3月3日
聖書箇所 歴代誌上 21章1節~7節
計算無用
瀬戸 毅義
物事に正確を期す人は計算を重んじます。イエスも教えておられます。
あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。(ルカ14:28-32 口語訳)
計算は自分の能力、力量を知るためにも必要なことです。
しかし信仰者の生涯を見ると計算が罪となる場合があります。ダビデ王の計算はその明白な一例でした。ダビデはヨアブに命じて人口調査を実施させました(21章1節以下)。
「神の眼にこのことは悪であり、神はイスラエルを打たれた」(関根正雄訳旧約聖書)のです。
疫病にかかり多くの民が命を失うことになりました。この場合、なぜ人口調査が罪とされたのでしょうか。考えられることは①荒野で行われたそれとは違い、神の命によるものではなかったこと。②ダビデが神に頼らず、自分の勢力を誇ったこと。彼の心にうぬぼれがありました(自分では気づかなくとも)。ダビデ王にはすべてが順調でした。人生順風満帆の時ほど自己に頼り、神を忘れがちになるものです。好事多魔(コウジマおおし)という言葉があります。「よいことにはとかく邪魔がはいりやすい」という意味です。注意しなければなりません。
私は神学校出たての頃、小さな教会の牧師でした。週報に〇人礼拝、バプテスマ〇人などと記し、教会の方がたに祈りをお願いしたことがありました。このようなことはすべきことではなく、神の前では罪でした。振り返れば教会に来られた方々申し訳ないことをしたのです。このようなことに計算は無用でした。
キリスト教の世界でも聞く言葉があります。○人レイハイヲメザス・・・。 シンジャヲカクトクスル・・・。教勢ヲノバス・・・。 何と傲慢なオソロシイ言葉でしょうか。キリスト者の信仰は神が与え導いて下さるのです。真実の教会形成は私どもの力に拠るものではなく神のお力と恵みに拠るものではないでしょうか。ささやかであっても私どもが神からいただいた信仰は実に尊いものでした。キリストの十字架の贖罪に基づいているのですから。
パウロは次のように私たちを励ましました。目の前のことに一喜一憂しないで、謙虚に感謝の心を忘れず信仰生活を送りましょう。
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
(ピリピ人への手紙 3:12-14。口語訳)