【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2025年2月16日説教要旨
聖書箇所 フィリピの信徒への手紙3章12~16節
目標を目指して走る
原田 寛
フィリピの教会では、「すでに完全な者になっている」と言っている人がいたようです。「自分は赦されている」「救われている」のだから「もう大丈夫」という思いは、別の誘惑に遭遇していくということかもしれません。
かつて、エイズという感染症が大きな話題になったことがありました。エイズは、HIV感染として血液や体液によって感染し免疫を破壊するという恐ろしい病気ですが、性的な感染によって起こることが多いことから、性感染症と考えられていました。その際、そのエイズに対して恐れをもたない二つの世代という話を聞いたことがありました。ひとつは、世間知らずで経験の少ない世代として、恐れを知らない10歳代が紹介されていました。もう一つが60~70歳代でした。社会的な歩みを終え、様々な責任を終えて人生の終焉が見えてきているがまだまだ元気という恐れない世代です。(神を畏れることを知っている人たちは、あてはまりません。)つまり、エイズに感染して人生が終わっても構わないという考え方です。
聖書のいう「完全な者」とは別の意味で「完全な者」だと思います。Ⅰコリント13章12節「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。わたしは、今は一部しか知らなくても、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」とあり、「そのとき」は「キリストの日」が想定されていますが、いいかえれば、修正不可能な時ともいえます。修正不可能は、現実的には「死」を指していると考えて良いと思います。死ぬ時に「エイズになって死んだ」といわれるのと、「エイズになったが、自らの生き方を改めて、感染症を克服するために様々な機関に協力しあらゆることを行い、後代にその足跡を残しました」といわれるのと、まったく違うことです。
パウロは、フィリピの手紙で完全な者は「神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と考えるべきだと記します。まだまだ、生きているひとりひとりは途上にあるのです。
わたしは、天に目標があります。だから、示されているように「イエス・キリストの召しにより、天で賞を得られるように、走り続けよう」と考えています。