聖書箇所:創世記33:1~20
ヤコブは父イサクを騙してエサウから長子の権利を奪い、その為エサウから命を狙われ叔父ラバンの元に逃れて20年が経ちました。「主はヤコブに言われた、『あなたの先祖の国に帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいるであろう』」(創世記31:3)。ヤコブはこの示されたみ言葉により、親族のもとに帰る決心をします。そして、永い旅路の後、いよいよエサウとの再会の時を迎えます。エサウとの再会に備える夜、天使との闘いに勝利したヤコブは、夜明けには、もはやそれまでの他人を出し抜き競争する「ヤコブ」ではありませんでした。いまや「イスラエル」(神が闘う)という名前をもらったヤコブです。エサウとの対面を前にして、隊列の最後尾にいたヤコブは、自分から隊列の先頭に立ちます。しかも、エサウと対面するにあたって七度も地にひれ伏します。そこには、神様の約束をよりどころとして、エサウと顔と顔を合わせて和解を成し遂げようとする、ヤコブの強い決意が見て取れます。するとエサウが走ってきて、ヤコブを抱きしめます。二人はあいさつし、抱き合って泣きました。エサウは、20年前に弟ヤコブと母リベカの騙しによって長子の権利を奪われたことを決して忘れてはいなかったでしょう。しかし、お互いの顔と顔とを合わせて共に在ることができる、二人は再会の喜びにひたります。「あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います」(33:10)というヤコブからエサウに対する言葉は、夜更けのヤボクでの格闘を通して与えられた、神様との和解を土台にして語り得た言葉かもしれません。和解は実に神様からの側から与えられる出来ごとです。
ヤコブはその後スコテからシケムに移り、「そこに祭壇を建てて、これをエル・エルヘ・イスラエルとなづけた」(創世記33:20)と記されています。エル・エロヘ・イスラエルとは、イスラエルの神は神であるという意味です。ヤコブは、もう一度彼を愛し祝福せんと約束してくださった神を信じ神の側に立ったのです。そこからヤコブの主にある生活は始まるのです。
使徒パウロは「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方に暮れても行き詰らない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」(Ⅱコリント4:8-9)と語っています。このパウロの不退転の力はどこから来たのでしょうか。それは決してパウロ自身から出たものではありません。パウロが「その測り知れない力は神のものであって、私から出たものでない」と語っているように、神のものなのです。どんな困難な時でも神の約束の言葉に立ったとき、パウロはこの神の力に生かされたのです。ヤコブは20年もの間、エサウの「殺してやる」という言葉におびえ続けたことでしょう。しかし、「あなたの先祖の国に帰り、親族のもとに行きなさい。わたしはあなたと共にいるであろう」という神の言葉を聞き、その言葉に立ったとき、和解のためにエサウと会うという力が与えられたのです。
私たちの生きているこの世界は、決していい加減なところではありません。厳しい現実がありますが、そこに立ちながら、神の言葉をより確かなものとして、それに信頼して生きるとき、光が見えてきます。希望が与えられるのです。どこまでも主に寄り頼むことによって生きるところに信仰があります。
(2014.9.21 ) 牧師 岩橋 隆二